9時すぎに起きる。昨日、小野寺が明日の朝ごはんは私が作ると言ってくれていたので、作ってくれと言ったが寝ていたのでヨーグルトだけ食べた。今日は胃が重い。これから安瀬さんと羽根木公園を散歩する約束だが、その前に大江の続きを読みたいなと思っていると、小野寺が起きてきて、朝ごはん作ると言った。本読みたいから今日はいいよと言うと、怒られた。どうしてそんな冷たいのと言う。おれは普通にしていると人から冷たいと言われる。どうしたものか。小野寺はとても怒ったままだったけど、大江の続きが読みたいので家を出る。
梅ヶ丘で待ち合わせになってて、久々に小田急線に乗りたくて、吉祥寺から井の頭線→下北沢から小田急線、と言うルートもあるんだけど、新宿経由で、できるだけ小田急線に乗るルート。梅ヶ丘、小田急線のレールの音、降りる人の感じ、広告、空気、帰ってきた感じがする。

少し前の夢。森健と富澤さんと、岩井俊二の映画を観に行く夢。セーラー服を着た少女。「あれが岩井俊二だ」と富澤さんに言われる。そうなのか。地下の図書館書庫で1人歩きながら、そう思う。

「壊す人」と同じ世代の村の創建者は100歳を超えて、村の生活が安定した頃、オシコメという女が村の指導者として台頭して、「若い衆」らとともに「復古運動」を始める。村を作った当時の、畑を耕して道を整備する労働の生活に立ち返るという運動。そこで「巨大化」した老人である創建者たちも同じく肉体労働をさせられる。しないわけにはいかない。なにしろ復古運動を中身は老人たちが作り出したものであり、そこではみんな平等にフンドシ一丁で働いてたんだから。でも老人だからつらい。つらい老人たちは、労働の合間に、みんな揃って同じ夢を見る。村を創建せず、普通の城下町の人間として年老いて生きていくという、あったかもしれない自分のもう一つの一生。次第に、村の重労働の現実は、城下町の自分が見ている夢なのではないかと思われてくる。

もう限界まで疲れてしまった創建者の労働隊に、そのうち不思議なことが起こりました。かつての創建者たちは「巨人化」した身体を持つ、見るからに頑健な者たちでした。それが背こそ高いが痩せこけた体格に萎み、加えて百歳を超えた老人らしくやつれはてて、いつもうつむいているふうだったのですが、これらの老人たちひとりひとりの身体の輪郭があいまいになり、まわりの空間に【にじみだす】(原文傍点)具合になり、身体自体、色合いが薄くなって、弱い光源で映し出された幻灯のように見えてきた。そしてついには「希薄化」していた身体が空中に溶け去ったようで、どこにも見えない、という進み行きとなったのでした。(…)
消え方のひとつは、老人たちがこのところ昼間もうとうとすればすぐに見ていた夢のなかに戻って行く消滅の仕方でした。「壊す人」とともに冒険を好む若者として出発し新天地を開拓したというのは思い込みで、実際には城下町でたいした異変もなく暮らした、その生涯の方へと、夢の通路から戻って行く消え方。この谷間に永く生きた自分は、城下町の退屈な老人の見る、風変わりな夢の登場人物にほかならなかった、ということで…… このタイプの消え方をした老人の家族たちは、なんとも落ち着かぬ気分になりました。そのうち血のつながる自分らまでもが、やはり城下町の老人の夢の内容にすぎぬとして、ここから存在しなくなるのではないかと、不安に思ったからです。
(p148-149)