今、小野寺が寝ようとしていて、早く寝る準備をしろと言っているので、今日はささっと。
代官山蔦屋へ。混んでる。すごく晴れてて、「春だっていうだけでウキウキしてくるね」と小野寺が言った。虫のように、人間も晴れてれば外に出て蔦屋に行く。昨日に引き続き大江を読む。電車の中ではラカンの『アンコール』を読んでいた。

とある人物、法学者が、わたしのディスクールがどのようなものかを問い合わせてくれたのですが、この人に対してわたしは__わたしのディスクールの根拠となるもの、すなわちランガージュは話す存在[l’être parlant]ではないということを彼に、彼自身に、感じ取ってもらうために__次のように回答できると考えました。すなわち、わたしにとって法学部で話をしなければならないのは場違いではないということ、というのも、それ[ça]は、いくつもの時代を経て構成され、独立して自分を維持しているけれども、それにひきかえ、人間と呼ばれる話す存在の方は、まったく事情が異なるのだ、と。そういうわけで、あなた方がベッドにいると想定することから始めるとなると、わたしは彼の法における居場所に対して原因をもって弁明しなければなりません。(…)
わたしとしては、法のなかで覆い隠されたままになっているもの、つまり人がベッドのなかですること__抱き合うことから出発します。

法と享楽の関係を、一言で用益権という語で表してる。それから、享楽というのは何の役にも立たない、とラカンは言ってる。そういえばベルクソンのコレージュ・ド・フランスの講義録で、なぜ時間を空間化(時計)するのかという話で、それは役に立つからだ、と言っていたのを思い出した。それは人が死んでも自分を保っていられるものだ。享楽はこの、書いているこの身体がおれと呼んでる身体の中で起きて、消えていく。これは何の役にも立たない。
大江の小説は、まだ読み途中だから分からんけど、森というものの死生観、生まれ変わり、物語の伝承の話をしてる(ここから大きくずれることはないだろう、し、もちろんそんな簡単な話にはならんだろう。)。つまり、自分が死んでも生まれ変わったり、死んだままだったとしても生きているのと同様にディスクールが連綿と続くということだろうと思う。主人公はその中で生きることを、多かれ少なかれその一部になることを運命づけられた人間のように描かれてる。おれはクリスチャンだけど、洗礼の時に、「神の手足になることを誓いますか」というようなことを言われた。儀式だから、誓いますと言った。
享楽について考えることは、それとは真逆のことなんじゃないのか? つまり、自分が、ただ死ぬこと、死体となって腐って、腐るということは細菌が繁殖していたりウジがわいていたりして、その一部になるが、しかしそこで「私」というものがそれらの一部になるのではなくただ消滅していくということ。だからといって「私」のうちに閉じこもりたいのではない。今の自分の関心としては、そっちだ。
一昨日あたり、フィンクの『アンコール』解説の中で、細部が全体に収束していく目的論的な歴史観とか、意識という「中心」に対して批判的な意識を持っていたと書いてあったけど、この私というものを、死んでなお世界の一部になっていくとか民話を伝えるという大きな流れのなかの一部に位置する存在、ということにすると、結局大きなものに回収されるということになる。それは死を乗り越えたことになるのか? それはむしろ防衛なんじゃないのか…。そういえば樫村晴香の群像の論考が近いことを扱ってたかもしれないから明日読む。

ロビンと小野寺と3人でCA4LAに行って、小野寺がグレーのキャップを買って、トンカツを食べてから帰る。帰りの電車で、蔦屋で買った『ファッションは語りはじめた』を読む。
まずは千葉雅也と蘆田裕史の対談。そもそもファッション批評というものの存在の難しさについて。なのだけど、千葉雅也の批評に対する姿勢に、おお!と元気になる。

そうした複合は、全体として捉えることができないわけですよ、服っていうのは。いつでも、なんらか有限な「襞」(pli) のいくつかについて考えるしかない。だから、批評者の視点によって、極めて限られた時間や限られた状況において、ある襞のあり方に出会うわけです。その有限性において割り切って批評をするのは、勇気がいることですよ。永遠と想定される支持体がないときに、自分がそれを見たっていうことの証言の危うさ、証言の有限性において、ひとつのアドホックな見方を世に問うわけです。このことがラディカルに要求されるのがファッション批評であって、僕としては、そういう緊迫した姿勢からアートを見たらどうか、文学を読んだらどうか、と考えている。
美術作品は一回以上観られるから、美術批評では、視覚情報処理の有限性にシリアスに向き合うことから逃げられます。つまり、絵画について一回何か書くとすると、今回はさしあたりこの側面については論じました。でもまだまだ論じるべきことがいっぱいありますという但し書きをしておくわけです。(…)
でもそれは、ある出会いにおいて、その限りにおいて語り切ってしまうことの厳しさを隠蔽することでもあって、僕は、美術を語るときでも、いったん語り切ってしまうことの厳しさ、というか愚かしさを引き受けることは、批評にとって必須の覚悟だと思うんです。ちょっと人生論みたいですけど(笑)これが、批評の、アカデミズムと違うところだと思う。(…)ある対象を巡ってさまざまな角度から豊かさを引き出していくのが、研究者の「共同体」としてのアカデミアです。が、批評というものは、孤独に愚かしいものであって、小林秀雄以来の日本の批評的伝統なのかもしれないが、つまり一刀両断にするわけですよ。(…)そのことが、とりわけファッション批評において問われるんじゃないかと思っている。(p30-31)

愚かしいことを引き受けるというのに、なんだかグッときた。あるものを見て、ああこういう感じのことを考えてるのかなとか、こういう文脈かというのはある程度分かるようになるけれど、そこを外れて自分が見たり聞いたりしたものを語るのには勇気がいる。作品に出会った瞬間の、このおれという身体とか時間を通す、そして思考する、その一連を問題にすること。それを語ることの愚かさ。