出かける前に薬を飲んだので、からだに力が全く入らないまま表参道のユトレヒトでやっていた中島あかねの展示へ。道の途中でSCOOL の土屋さんに、展示の中で生西さんと石田さんに会った。トイレに行きたいし、かなりふらふらではあったが、中島あかねの絵はカニエ・ナハの詩集で知って、いいなとは思ったけど、揺さぶられる感じではなかったので作品の購入は踏み止まった。

青山ブックセンターでデュラス『ガンジスの女』、安藤礼二『熊楠 生命と霊性』、ベケット『ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』を買う。2月から、結構本を買っている。3万くらいにはなってるだろう。ちなみに2月末の収入が5万くらいだったから、半分以上は本に消えていることになる。11月から収入がなくて、久しぶりの収入だったけど。

家に帰ってカフカの日記と大江の続き。大江はようやく4章に突入。しばらく仕事で読めなかった。この小説は、ちょっとだらけてない?と思うと次の10ページくらいでガンとでかい出来事なりタームなりが出てきて、ハッとする、というのが続く。数日前に読んだ3章11 の、銃声がなった瞬間の空間の複雑な感じとか。今日読んだ4章9 は、それまではなんとなく江戸から明治に成り代わる感じが示唆されていて、新政府などとのいざこざが書かれていたのだけど、ここにきて唐突に「ブルドーザー」という言葉が出てきてびっくりする。しかもフランスからの輸入!村の財務係の人間がニューヨークに留学していて、ブルドーザーを輸入していた。そのブルドーザーを使って土を掘り起こして、軍が攻めてきたときの反撃の準備をする!なぜそんな準備をするのかというと、村の人間が「軍が攻めてくる」という共通の夢を見たから、という、「壊す人」が生きていた頃からあった神話めいた出来事、それら一連が昔話的な語りは保たれたまま進められていくので、ブルドーザーは現在と神話をまたがっているように見える。

カフカの日記。1910年、日付なしのものと、7月19日のものを読む。日記がほとんど小説みたいだ。

ぼくは今日、例えば失敬なことを三つやってしまった。相手の一人は車掌で、もう一人は紹介してもらった人だ。だとすると、二つにすぎなかったことになる。だが、それは胃の痛みのように僕を痛めつける。それはだれがやったにせよ失敬な振舞だっただろう。ましてやぼくがやったのだからなおさらだ。つまり、ぼくは自分から抜けだし、空中の霧の中で闘ったのだ。そして一番腹が立ったのは、僕は連れのものたちにまで失敬なことをそれと承知の上でやり、やらずにはいられず、もっともらしい顔つきをし、責任を負わずにはいられなかったのに、だれもそのことに気づかなかったということだ。しかし一番困ったのは、ぼくの知人の一人が、この失敬な振舞を一人格のしるしとは考えず、人格そのものと解し、この失敬な振舞に感心してみせたときだ。なぜぼくは自分のなかに留まっていないのだろう? もちろん今になってみれば自分にこうも言える。見ろよ、世間はお前にやられっ放しじゃないか。車掌も紹介された男も、お前が立ち去ったとき何もしなかったじゃないか。後者は会釈さえしたぞ。しかし、そんなことになんの意味もない。お前は自分を当てにしているなら、何も達成することはできないのだ。それなのに、なぜお前はこの上なお自分の領分内でぐずぐずしているんだ。こういう挨拶に対しては、ぼくはこう答えるしかない。僕だってやはり領分外で自分が人を鞭打つよりは、領分内で自分が鞭打たれていたい、と。だが、そもそもどこにこの領分なるものがあるんだ? 一時期それがいわば石灰にまぶされたようになって地上に転がっているのをぼくは見た。だが今は、なんとなく辺りに漂っているだけだ。いや、漂ってさえもいない。(p12)

「ぼくは今日、例えば」というところですでにちょっとしたツッコミを入れたくなる。その後、三つだと思ったら二つだったり、肯定と否定が入り混じる。ぼくは自分から抜けだし、空中の霧の中で闘ったのだ。」の後、「なぜお前はこの上なお自分の領分内でぐずぐずしているんだ。」と領分内であることが記述される。で、この領分というのは、抽象的な、いわゆる「自分に閉じこもっている」ということの謂なのかと思っていると、「一時期それがいわば石灰にまぶされたようになって地上に転がっているのをぼくは見た。」というまさに衝撃的な一文で視覚化される。ここから「だが今は、なんとなく辺りに漂っているだけだ。いや、漂ってさえもいない。」は、前文の「石灰」という粉塵=霧のイメージからきているだろう。しかし最初に立ち返ってみると、この「霧」こそが自分(≒領分)の外であることが示されていたという、謎の循環が起こっている。

7月19日は、教育が自分に害を及ぼしたという話が書かれているのだけど、同じ話が反復され、しかし割とがっつり変わりながら3パターン書かれている。なによりも驚きなのが、この日は邦訳で13頁から20頁まであり、つまり1日で8頁分も書いている!!