今までの思考塾の中でも、一位二位を争う面白さ、熱量だったと思う。しかし今日保坂和志が話題にしたキリスト教の話の大部分が神秘主義に関するもので、保坂和志が言っていることをちゃんと受け止めるためにはまずそれらの本を読まないといけない。おれはベケットとラカンを通じてエックハルトをちょっと読んだりしたけど、普通おれらが思考する時のレールからはガタッと外れてるもので、数冊読んだくらいじゃ当たり前だけど分からないし、これは例えばヘーゲルを読んだ時の分からなさなどとは異質なものだと思う。

保坂和志が「小説」という時、これを自分の中の「小説」という言葉と同じだと思ってはだめだ。というかそれは本を読む時の基本的なスタンスなんだけど、しかし気をつけてないと自分の中で閉じてしまうことがある。その中で「面白い」と思ってても、作品を読んでることにならない。
今こうやって書きながら今日のトークのアーカイブ動画を聴いているのだけど、トークを聞くということから作品を読む行為に話が飛ぶ。おれにとって保坂和志の話を聞くということは、作品を読むための土台を作ることでもある。小説は書かないの?と小野寺に言われた。自家製お好み焼きを食べていた。今は演劇がやりたい。とにかく芸術、人間、世界を考える時の自分の中のモデルが、自分の中で演劇になった。違う、あなたが言う演劇じゃない。しかし保坂和志のトークを聞いて分かることは、保坂の話の内容を理解して自作に活かすというのではダメで、これはどちらかというと「よっしゃー!」となって走りだすためのものだ。
小説はなまじ文字であるだけに、そして書くときに自分の周りに本があることが多いから、やる前にグダグダ考えてしまう。演劇は違う、演劇をやる時に周りに演劇は無い、楽器のように俳優がいる。理論とか歴史を思い出させてくれる本も本棚も無い。せいぜい台本くらいで、まずはそれ喋って動いてみるしかない。一回性とは何か? と考えている暇があったら10回でも100回でもやってみること。小説的思考塾は小説の理論についての思考じゃない。小説を書いているときの思考、書いているように読むような思考。