表参道に新しくできたヨックモック・ミュージアムの展示「ピカソ コート・ダジュールの生活」に行ってきた。小野寺が教えてくれて、最初ヨックモックの包装のデザインが分かるミュージアムなのかと思ってたが、普通の小さな美術館だった。

ピカソの陶芸展、陶芸を見て面白いなと思ったことがほとんどなかったからあんまり期待せずに行ったのだけど、これがもうすごく良い。ピカソが粘土を触ったり絵付けしてる映像も見ていて楽しいし、楽しげな人間の顔や雄牛の平面が、作品自体の立体的な形とは独立しているようにも見えて、とはいえ全く切り離されることなしに互いが微妙な関係を保っている、というのは陶芸一般に言えることなのかもしれないけど、おれはピカソの作品によって気づいた。
思わずポストカードとファイルを買う。閉館間際に行ったからカフェには行けなかったけど、普段はケーキとかあるみたいで、気になる。
外に出ると寒くてファミマで焼きそばまんを買って食べながらCA4LAへ。一週間近く迷って、人生で初めて8000円もする帽子を買った。Simeon Farrarというブランドとコラボしたバケットハット。

青山ブックセンターでピカソの陶芸を集めた本を探すが見つからず、プロントでレモンサワーを飲みながらブルース・フィンクの6章を読む。ラカンのセミネール『アンコール』について。「無意識における文字の審級」論とかは修論を書く時に読んでて、『アンコール』が積読になっているので、その前に目を通しておきたかった。タイトルの「ア・ラ・レットル」が「”文字に” 添って」となってるのは、はもちろんそのまま精神分析のやり方ということなんだろう。そういえば性別化の話とかは松本卓也『享楽社会論』で一回読んだ、いや、他でも色々読んでるな。難しくてすぐ忘れちゃうから何度も読み直す必要がある。
以下、自分のためのメモ(読みが間違ってる可能性も大いにある)。

ラカンは、精神分析を前近代的な知(とはいえそれは今なお受け継がれている)から区別しようとした。フィンク曰く、その前近代的な知というのは、「精神(ヌース)と世界があらかじめ調和しているという幻想」によって基礎づけられていた。かつ、それは「調和していなければならない」という信によって支えられていた。こういう幻想は、思考する者とその対象、質量と形式、男と女などに対して適用されていて、それをラカンは、全て性交の隠喩と関わっている、と言っている。男と女、思考する者とその対象、それらは「性関係のようなものがあり、この結びつきないし関係は私たちすべてにおいて確認される」。
それは今でも、ちょっと考えてみればマジで色んなところに転がっている。例えばプラトン『饗宴』の中でアリストファネスが語る人間もともと球体説。男と女は元々両性具有の一体の人間だったが、ゼウスがキレて球体を2つに割ってしまった。そのために人間は球体の片割れを探し、それを見つけるや結合する、というやつ。球ないし円という想像的なものは、その後科学において尾を引き、科学者は真理を証明するために、惑星が円に沿った運動をしていることを説明しようとした。しかしケプラーに至って、楕円というモデルが導入されることで、「中心という観念が問題化された」。ここで中心と周縁という観念が出てくる。フロイトはそれまで自己において「中心」にいた意識的に考える自己を、無意識を強調することによって追い出した。それは中心にいた「知ってる私」に対して、「知らない私」を強調することだ。父親殺しの話は沢山あるのに、フロイトはどうしてその中でもオイディプスをモデルとすることを選んだのか。それはオイディプスが自分がしていることを「知らない」からだ。知らずに行動すること、してしまうこと、これがフロイトを惹きつけた。
ソシュールのあの有名なシニフィエとシニフィアンの関係性を説明するあの卵型の図においてさえ、「調和」という観念からは逃れていない。シニフィアンとシニフィエは分かち難く結びついていて、全体を織りなしている。ラカンの考えでは、シニフィアンはシニフィエを「支配し」、存在させる。で、図の中の両者の間に引かれた横棒は、調和のための分割ではなく、むしろ矢印を無効にする障壁としてある。この横棒は「ファルス」と呼ばれる。
この横棒が「ファルス」!マテームもそうだけど、ラカンはどうしてそんなに分かりづらい記号を使ったりするのか。フィンクによれば、どうやらラカンは視覚的イメージから脱したかったらしい。

このことは実際、ラカンが1960年代前半の仕事で、クラインの壺やメビウスの帯といったイメージを導入した理由の少なくともひとつである。彼は聴衆に、円や球体といった観点から考えることをやめ、代わりに面の観点から考えるように促した。面は、内側と外側、前と後ろ、身体と開口部といったカテゴリーからは容易に把握できないものである(…)。世界を、全体を構成する者として把握する見方は、「ひとつの見方、ひとつのまなざし、ひとつの想像的な理解」にもとづく(…)、そうラカンは述べる。それは、まるで世界がひとつの側面でしかないように、何か特権的な外側の点から世界を眺めるかのように、いわば外側から球体を見る見方である。しかし私たちはクラインの壺の外側にいるのだろうか、それとも内側にいるのだろうか。クラインの壺のような面がモデルとなったとき、何らかの外部性という観点から自らを位置づけるのは困難である。しかしそうした面でさえもイメージのままであり、それでは精神分析は想像的なものに根づいたままとなる。(p215)

そういえば保坂和志と初めて直接話したのは22歳の時、保坂さんが詩人の福田拓也とB&Bで対談した時のことだったが、保坂さんはネッカーの立方体を印刷した紙を掲げて、「この図で重要なのは、必ずどちらか一方しか見れないということなんだよね」と言った。昨日の思考塾の話でも、保坂和志は徹底して、神という存在が世界の外側に位置するものであるとする思想(今日の感じでいえば幻想)を乗り越えようとしていた。
世界の外側に立つことから脱するためのラカンの解決策は、記号だった。記号によって形式化することは、想像的なものを排することができるという効能がある。そしてこれがラカンにとっては、科学において(数値化して測定することよりもはるかに)重要なものだった。
ラカンの仕事においてこれと並行して重要なのは、テクストに対する「フェティッシュ」な側面だとフィンクは言う。ラカンの本は一般的に「読む」という行為からはかけ離れている。言葉遊び、矛盾、仄めかし、こうしたことは「読む」ことを超えて分析を要請する。知としてのマテームと、言葉遊びに享楽する言語によって構成されるのがラカンのテクストだ。

ところでラカンは「知は享楽の欠乏を動力にする」と言っているらしい。享楽の欠乏とは何だ。これがセミネールの書名『アンコール』の由来。これは、「もっと(アンコール)別のものを」という意味だ。人間が何かを欲して、それを手に入れるとさらに別のものを欲するというやつ。「たしかにおれはこれが欲しいと言ったんだけど、おれが欲しいのはこれじゃない」。あるいは、子供に物を買い与えてばかりいるとワガママな子になるというやつ(これは片岡一竹の入門書に書いてあった例)。
なんでこういうことが起こるのか。それは、「自らの享楽を、そうあるべきと考える基準に照らして、すなわち絶対的な基準、規範、ないし標準に照らして判断する」からだ。その基準は常に「この」満足ではなく「別の」満足であって、だから自分が体験する享楽はいつもちょっとだけ、「なんか違うな…」という感覚になる。つまり、享楽は欠如を抱え込んでいて、失敗するものとしてある。これを「ファルス享楽」と言う。さっきシニフィアンとシニフィエの間の横棒をファルスと言うらしいと書いたけど、あれは要するに欲しいと「言う」ことと、実際に欲しいものの間に、埋められないギャップがあるということだ。
「有田とマツコと男と女」という番組が昔あった。詳しい内容は忘れたけど、一般人が沢山集まってマツコ有田と喋るという番組だったが、その中で若い(しかし成人してる)男性が、童貞を卒業できないという相談をしていた。それに対してマツコは「童貞なんて捨てちまえばクソみたいなもんよ!」と言っていたのを、強烈に覚えている。
「おれはこんなにセックスしてみたいのに、クソみたいなもんなのか!」
理想的な享楽(これを「他なる享楽」という)は、しかし実在しない。それはむしろ信によって支えられた幻想だ。ラカンは、他なる享楽は実在はしないが、外-在(ex-sist)すると言う。つまりそれは常に我々の外側にあるものなのだ。

ラカンはこの二つの享楽(ファルス享楽と他なる享楽)を、性別化と言われるテーマにおいて論じる。それは男と女に対応する(だからと言っていわゆる生物学的な性によって、この二種類の享楽が当てはめられるわけじゃない。このことは1回言えば済むことだが、フィンクはこの章で5回くらい書いている)。

左側(男)の式は以下。(式の説明だけ松本卓也の『享楽社会論』を見直した、あと横棒の打ち方が分からない)
∀xΦx:すべての男性はすべてファルス関数の影響下にある。
∃xΦx:ファルス関数の影響をうけない人物が、少なくとも一人存在する。

右側(女)は以下。
∃xΦx:ファルス関数の影響を受けない女性が存在するわけではない。
∀xΦx:女性のすべてがファルス関数の影響を受けるわけではない。

フィンクの説明によれば、「∀xΦx」の式は、対象aと関わっている。それはつまり、男が愛する時に、他者を対象aとしてフェティッシュに愛するということだ。ラカンはファルス関数を去勢と等価に見ていたらしい、要はもはや十全に享楽することを阻まれるという仕方で成り立つものだ。この阻まれ、「女性なるもの」
これに対して「∃xΦx」は、去勢されず、〈他なる〉享楽を受けるもの=例外者がいることへの信だ。それは多分、ファルス享楽の絶頂を諦めることで見えてくる、魔法使い」の領域だ(魔法使いにはなれないということを、誰しも知っているということも含めて)。
女の式。ファルス享楽ではない享楽が「ある」わけではない。どれもこれも実在するものは全部ファルス享楽だが、その代わり、さっきも書いたように、〈他なる〉享楽は外-在(ex-ist)する。この享楽が言語化できないのは、言葉にする時点でシニフィアンに分節化されないといけず、それはつまりファルスの影響を受けることになるからだ。
じゃあ一体、〈他なる〉享楽に対しておれたちに何ができるっていうのか。フィンク−ラカンは「愛について話すこと」だと言う。これ以上のことをフィンクは書いていないが、松本卓也『享楽社会論』を見ると、『アンコール』の中でキルケゴールが超重要視されているのが分かる。

家に帰ってから、豚バラ大根を作る。「千鳥のクセがすごいネタグランプリ」を見た。とろサーモン久保田が、悪口をめっちゃ言うラップが大好きだ。おれは今も口が悪い人には憧れる。「悪口言っちゃいけない」という道徳的な態度、そういう標語が自分の中に浮かぶのが、邪魔臭く感じるからだと思う。