朝って言ってもなんだかんだで11時過ぎ、駅前の内科に行く。コロナをめっちゃ疑われている目つきで受付されたけど、半夏厚朴湯と胃薬をもらって帰る。とはいえ食欲はかなり戻っていて、胃の調子も良く、久々に小野寺と近所のピザ屋でランチ。一人前食べた。今は問題は胃よりも喉と胸か。
そういえば昨日の夜、保坂さんからメールが来て、オンライン版「小説的思考塾」とか胃について少し話すなど。
今はひとが話すことで内容とは別に伝わるものの方に興味がある。ラカンのセミネール(とテクスト)はラカン自身の欲望が転移することを狙っていたという話があったが、まさに保坂和志の小説的思考塾は、保坂の欲望が転移することを狙っているように思える。聞く側からすればそれがあればいい。小説家の刊行記念イベントとかで「どうしたら小説家になれますか?/小説を書けますか」と言う人がいるけど、そういう時、質問する側も答える側も大抵はメソッド的なこと(1日3枚書けとか同じ本を何度も読め的な話も含めて)を想定している。
でも重要なのはそこじゃなくて、作ることに対する欲望(それが欲望である限り作ることに際限はない)があって、自分のやり方でやるということ、それなら保坂さんの話によって駆り立てられることが一番重要で、その後は保坂和志に嫌われようが無視されようが、目の前にある原稿用紙やキャンバスや舞台に向きあってやりゃいいということだ。だからメソッドとか内容とかは実はそこまで大した話じゃないのかもしれないと思う。

今書いてて思ったけど、「どうしたら小説家になれますか」という質問は聞くけど、「どうしたら演出家になれますか」というのを言っている人は見たことない。自分が小説を書く時に、多分最も邪魔なのが本棚で、小説を書く時にはたいてい自分の部屋にいて、本棚があって、過去の偉大な小説が並んでいる。対して演劇の稽古場に、過去の演劇は無い。あるのは、他人と舞台だけ。演劇はそこにすでにあるものとの対話から始まる。小説もそうなのに、書けない時になんとなく本棚をちらちら見ちゃうのは(おれだけ?)、「どうしたら小説家になれ
か」と言っている人のように、オウカガイを立てちゃうということか。
稽古場に行けばそんなことはできないのでとにかくやるしかない、内容じゃないメソッドじゃない、ということが演劇やる人には染み付いてるのかもしれない。

夕方に吉祥寺を散歩、ジュンク堂に行ったが閉まってて、ライチティーを探しにカルディとか成城石井を見たけど置いてないか、あったとしても高くてあきらめ。
ドトールで山下澄人『梨の形』を読む。山下澄人の中でも傑作だと思う。『月の客』とか『壁抜けの谷』に並ぶくらいすごい。
オンラインで伝わることと伝わらないこと。

音が駅構内へ入ってきてから大変に大きくなっていて、ごーとはもう違う音、人間の立てる音が混じり、わたしのからだは小刻みに震えていた、これら音、それとのずれ、音がかたちを持たないものとなり、からだに圧は感じない、ただその中にからだがある、高性能のスピーカーなら、電気信号とは違うやり方で音を出す大きな蓄音機では、立体画面ならどうだろう、触れた触れられた感触まで再現するものが開発されていると何かで見た、しばらくは騙されるだろう、しかしいつまでも騙されたりはしないだろう、その感覚を人間はというかこのからだは間違いはしないだろう、薬物で意図的に麻痺させられないかぎり、麻痺はうむをいわさなかった

身体はすごいが特別視しているわけでもない独特の質感。

うどんを食べて、うどんを一本ずつすすって食べたのはわたしはこのときがはじめてだ、ゆるいもの、おかゆだとか、退院間近な時には普通の白米も食べていたのに、外の、食品、普段普通に食べていたものが、口に入る前から、大変に強く、それはにおい、濃い味、そして常に耳にしていたあの音、ごー、なかなか口に含めない、のどを通らない、腹はへっていた、胸から下ぐらいからは「食え」の合図が出ていた、それを口とのどが拒否とまではいかない、聞こえなかったふりをする、知らない、そうなると「わたし」とわたしがするこのこれの出番だ、ゆっくり少しずつ口に運び、口の全体が驚いていた、
なんだなんだ

ずっと日記に書いてるように、この数週間、食べられたり食べられなかったりの一進一退だった。この感覚、口、のど、食道あたりが、目の前の飯を食べるべきものとして認識してない感じ、おれはNO PROGRESS にメンバーに「食べたいという欲求じゃなくて、食べたいと思いたいという欲求だけがある」と言ってた、そういう欲求はまだあるから頑張って食べよう、食欲を戻そうと思って口に運べる。

体調が悪いこと、身体が動かないこと、知覚が制限されることに対してこのうえなく感じるリアリティ。それはやっぱり母親が何度も死にそうになってるのを見て、入退院を繰り返してたからで、生死とか幸福とか、なにか考える時は病室が浮かぶ。良いとか悪いとか思う前に身体に染み込んだこの質感。『配置された落下』の戯曲で上演しなかったセリフに、片腕しか使えずに動けないというのがあって、それは透析だ。モノローグを言う女性の役は、透析していることを最初想定してた。

10歳か11歳の時、血管が破裂して大量の血がお腹にたまって妊婦さんみたいに膨らんで、お母さんが死んじゃう、とか思う以前にガーンと衝撃だった。親戚と言ってもうちは親戚同士仲良くないからおばあちゃんと叔父さんだけがいて、病院の駐車場で「何かうまいものでも食うか」と言われて、焼肉を食べに行った。衝撃を受けたんだから、そりゃ生きているものは生きるために、ガツガツ食べるしかない。その少し前、搬送されたときに病院のベッドで母親に「今日、夜ご飯どうすればいい?」とおれは言ったらしい。母親は生きているから、今でもたまにそのことを言っておれに怒るけど、正直めっちゃ笑える。

夜は冷蔵庫の余り物を使ってみぞれ鍋。激うまい。