ほぼ一週間ぶりの日記。
NO PROGRESS は、中止になった。というか、おれが中止にすると決めた。経緯はかなり色々あるけど、結局、自分がものすごく胃が痛くなったことと、公演前日になっても、その場にお客さんが入ることが想像できなかったことが理由だと思う。不完全燃焼だと言ってきた人もいて、申し訳ない気持ちがここ数日ずっとある。
2月10日の日記を読み返したら少し食べれるようになってたけど、12日などはほとんど何も口にできなかった。13日と14日に搬出をしたけど、ほんの少し荷物を持ったり1時間くらい立ちっぱなしだと、すぐに疲れがどっと来る。足も細くて、自分でびっくりする。

搬出を終えて、気分転換に散歩しようと新宿の紀伊国屋に行ったが、どの本もすごく遠くに感じる。手にとって何ページか読んでも、それ以上読みたいと思わない。困ったなあと思って、本棚から山下澄人『ギッちょん』に入っている『コルバトントリ』を読むと、これはまさに自分たちが演劇でやりたかったことなんじゃないかという気がしてきた。小説の内容じゃない。『コルバトントリ』の、数行ごとに話が変わっていく感じ、小説の「地」をパッパッと切り替えていく、一行前の地の文で書かれていたこととは全く別のことを、しかしその一行前の記述によってそれが浮かび上がってきたと分かるような全く別のことを、登場人物が会話する。
それを小説のひとつの技法として考えるのもいいけど、今の自分にとっては、これって「上演」じゃん、と思う。

というのも、この一ヶ月間、NO PROGRESS の稽古では、発話したり楽器を鳴らしたり銃を撃ったりしていて、そのひとつひとつはしかし事前に決められた戯曲に従ってなされるのではなくかぎりなく即興に近く、そこで問題になっているのは、どうやったら喋ったりおもちゃの銃を撃ったりということが「演劇」と呼ばれるものになるのか、そして各々の「私」が「私」であることをやめることなく、「私」ならざるものとなるのか(山下澄人はそれを「超その人」と呼んでいた)ということだった。

15日、武蔵境にある武蔵野プレイスという図書館に歩いて散歩に行く。古井由吉『仮往生伝試文』を持って行って読んでいたけど、古井の文は初っ端から小説の「地」が揺らぐことがなく、ゆったりと構えながらじりじり進んでいく。
これは自分が今年見たTPAM の二作品(シラカンと屋根裏ハイツ)を見ていても思ったことだけど、地の切り替えが問題になっていない演劇ないし作品は、5分くらいで飽きてしまう。
ロビンも同じことを言っていた。NO PROGRESS のようなことをやっていると、なにか物足りない気持ちになる。おれたちが一ヶ月やっていたのは、そういう試みだった。
本公演ができるかどうかはまだ分からない。今はほんのちょっとの創作物を除いて、なにも見たり読んだりする気にならず、散歩しながら人とか犬とか空とか木を見てた方が心がやわらぐ。