朝起きて小野寺の弁当を作る。作るといってもシャケを混ぜたご飯と卵焼きなのだけど。今日は久しぶりに大学時代の友達3人(ナゲ、キャノン、マリー)と、横浜で会った。まず関内で集合して、マリー曰く日本で最初のギリシャ料理屋さんらしい「スパルタ」でランチ、おれは赤魚のオーブン焼きとサラダ、モロヘイヤのスープ、アップルジュース。
モロヘイヤはたまにスーパーで買ってみるんだけど、どうやって料理して良いかわからず、肉を焼いた付け合わせとして使うくらいしかしたことがなかったけど、キャノン曰く味噌汁にも使える。

食べながらおれは「孔子は216センチあったらしい。本がない時代、弁論や説教の時代で身長が人々を説得するのに影響しなかったはずがない」と言った。その流れで、ピタゴラスがそら豆が嫌いだったという話を知った。

そら豆が嫌いなピタゴラス。本人だけ白黒で描かれていて、漫画っぽい。これ、本当に当時の絵なんだろうか……。(引用:https://gigazine.net/news/20180701-why-beans-were-emblem-death/

そのあと海に出て、ジェラートを食べた。二種類選んで、おれはピスタチオとオリーブオイル。オリーブの香りがほのかにして、まさかジェラートに合うとは思わなかった。今日は知らない料理をたくさん食べたんだな。
それから元町のユニオンの上にあるカフェでお茶をし、外国人墓地、港の見える丘公園を散歩しつつ、適当なベンチにすわって二時間くらいしゃべって帰った。店に入るのは気が引けるということではなく、本当にただ何も考えずにベンチに座って喋ったというのが大切だ。能の話とか、恋人の話とか、おれがチリに行きたい話とか、もうすでに思い出せない話をした。

このことだけで十分で、自粛社会が介入する余地はない(コロナが介入する余地はあるので、もちろん対策はしたが)。外国人墓地には野良猫がたくさんいて、人に慣れてるから触らせはしなくても触れるんじゃないかと人間が思うほどの距離まで近寄ってもびくともしない。犬種のわからない犬がいて、ナゲだけ蚊に何箇所も刺されたのに隣にいたキャノンは二時間ベンチに座ってて一箇所だ。

待ち合わせまで行く電車では保坂和志『未明の闘争』を読み返していた。2日か3日前に、作中で篠島の葬式の帰り、主人公が西武百貨店時代の同僚とシーバスに乗りながら話す(というよりもワイワイする)シーンは停滞しているように感じたと書いた。
だが今日久しぶりに友達と会って話している間に、彼らは「今日」と「目の前のこと」しか話していないことに気づいた。何年ぶりかに同僚に会って、「道に落ちてる葉っぱが綺麗」とか「太陽はどっちに沈むの?」とか「カレーによく納豆を入れるけど、別にうまいから入れるわけじゃない」とか、そんなことばかりだ。思い出話がない。あったかもしれないが、くだらない話に飲み込まれて忘れる。だがくだらない話はくだらないので忘れてしまう。結局シーバスに乗っている最中の光や海だけが私の頭に残る。だからつい、停滞していると思ってしまった。

久しぶりに会うと、話す内容が見つからず、思い出だけ二時間くらい話して解散ということがよくある。思い出話の花を咲かすことは楽しいけれども、久しぶりに会って現在形で話すということは、暴力的な歓びだ。