大学時代、好きになった女の子とご飯に行くところまではなんなくこぎつけるのに、たいていの場合、告白すると振られるか、告白する前に振られるかだった。だから授業なんかそっちのけで繰り返し読んできた作家である保坂和志が吉田貴司『やれたかも委員会』の単行本で対談しているのを知った時はうれしかった。
保坂が現在連載中の小説『鉄の胡蝶は歳月に夢の彫るか』の冒頭でこの対談のことを書いているのは重要だ。保坂の小説はある時期から一貫して、この「かも」=可能性をいかに思考するかということに賭けられているように思えるからだ。
『読書実録』のなかでは可能性についての記述がある。

今私はこう言う、言葉・言語化にこだわっているあいだ私は『こうしか生きられない』の世界観だった、言葉・言語化への関心がどんどん薄れて可能性の束、ああもできたこうもできた、枝分かれする宇宙になった。(p188)

これは芥川賞を受賞した『この人の閾』について言及している箇所だ。
私たちは風に揺れる木の揺れさえ完全に記述することができないという話が、『カンバセイション・ピース』にある。この作品は保坂がまさに言語化「できる」ようになることから解放され、「できない」という無力さへと転換した作品かもしれない。それゆえ、保坂のその後のテクスト、とりわけ小説論三部作は「言語化できないことをいかに言語化するか」ではなく、「言語化不可能性そのものをいかに記述するか」という問いへと開かれていく。それは「ああだった、こうだった」と出来事を確定させる言語ではなく、「やれたかも」の世界が現実を震わせ、現実と可能性の境界を崩すような言語への問いである。そしてそれは『未明の闘争』において、ふたつの系列を作り上げる。ひとつは他者論であり、もうひとつは時間論である。

2018年末から始まった連続トークイベント「小説的思考塾」において、保坂は小説家志望の人に対して「できるかぎりたくさんの人物を出すこと」を繰り返しアドバイスしている。そしてこれはまさにデビューから一貫している、保坂作品を特徴づけるもののひとつだが、保坂の他者に関する思考は実に奇妙なものだ。
たとえば『カンバセイション』では次のような記述がある。

あるいは綾子に私の記憶をしゃべることで、私が水を撒かないときに私の代わりに水を撒く綾子が、私の代わりに私の記憶を思い出すと考えているのかもしれなかった。子供の頃から綾子が抱いていた、自分が答えをわからなくても他の誰かがわかっているからいいんだという考えが、世界との関わりについて何らかの真実を示唆しているように私は感じ始めていた。(p235)

「私の代わりに私の記憶を思い出す」とあるように、ここで他者は私の代わりに私に固有の出来事を現象させるものとして思考される。その起源になる身振りとして私は綾子に話しかけているが、『未明』においてはもはやそのような身振りはなく、ほとんど暴力的に自分の出来事が他者に食い込む。

私が帰るとブンはすぐに迎えに来たがピルルが来ない。ピルルを探すとファンシーケースの上で少し苦しそうに唸っていて上から降りてこようとしない。(…)慌てて降ろそうとしたら前足で引っ掻かれたが、痛がっている場合ではなくだいたいさわったピルルはびっしょり濡れている。(…)ピルルは十八歳になった今でもそうだがせっかちで神経質で、あごの下の首あたりをせかせか舐めていたら下顎が首輪に引っかかってしまったのだ。何時間引っかかりっぱなしになっていたのかわからないがそのあいだ閉じられない顎を伝ってよだれが流れつづけ、首から胸と前足とお腹のあたりまでぐっしょり濡れた。私はいやがって暴れるピルルともう一度格闘してから血を流して顎から首輪を外したのだが、
『あのときは本当にびっくりしたわよねえ。』と沙織は、自分もあの場にいたと言い張る。『だって、よだれでぐっしょり濡れたピルルの毛の感触までまだこの手に残ってるわよ。』そこまで言われると私はもう否定しようがない。(p126)

世田谷の一軒家を出入りする群れ、西武百貨店の群れなど、保坂の小説に出てくる人物は常に群れをなす。それゆえ会話はつねに3人以上でなされ、会話というよりも「ワイワイしている」に近く、誰がしゃべっているか、あるいはその内容が誰によって経験されたかはさほど重要ではない。それこそが保坂にとって「世界との関わりについての真実」だからだ。
これについて印象的なのは、篠島の告別式の帰り、西武百貨店時代の友人数人とシーバスに乗るシーンだ。私は最初、このシーンは停滞していると感じた。他のシーンはどれも過去や現在が複雑に交錯する記述がなされるのに対して、会話はどうでもいい会話で、目の前に映る景色だけが描写され、なんだか他に比べてフラットに思えたのだ。
ところで私はおととい、たまたま同じ横浜で大学時代の友達3人と卒業ぶりに会った。久しぶりに友人に会うと思い出話が大半を占めることがあって、それはそれで楽しいが、「もう過去のひとなんだな」と実感する。しかしおとといは目の前の海とか、野良猫とか、こないだ『光のノスタルジア』を見てチリに行きたくなったとか、そんな話ばかりだった。
そうして話しているうちに、シーバスのシーンで彼らも「今日」と「目の前のこと」しか話していないことに気づいた。何年ぶりかに同僚に会って、「道に落ちてる葉っぱが綺麗」とか「太陽はどっちに沈むの?」とか「カレーによく納豆を入れるけど、別にうまいから入れるわけじゃない」とか、そんなことばかりだ。思い出話がない。あったかもしれないが、くだらない話に飲み込まれて忘れる。そしてくだらない話はくだらないので忘れてしまう。結局シーバスに乗っている最中の光や海だけが私の頭に残る。それは世界と隔てられた私だけの出来事ではなく、「私だったかも」「戸田芳文だったかも」へと開かれて、同僚という群れみんなに共有される出来事になり、ついには私が消えた後にも同僚や光や海を震わせ続ける。あるいはフィクションが現実を破り、ゴリャートキンがアキちゃんの出来事を経験する。

しかしゴリャートキンは十一月のペテルブルクの夜中の、風速十五メートルの横なぐりの雨と雪の川沿いの道を現に歩いている。津久井湖の先まで行って転倒してハンドルが曲がったこともある。(p204)

この群れとしての世界は、時間感覚と対になっている。時間は線的ないし論理的によって構成されるものではなく、はたまたヴィーコの歴史観のように円を描きもせず、現在と過去、そして「あったかもしれない出来事」が群れをなしている。これらすべてが非常に綿密に語られるために、それがいつのことなのか、本当にあったことなのかわからない。
『ハレルヤ』で、花ちゃんの声を保坂は繰り返し考え続ける。

『二ヶ月なんかじゃない!その時間のことじゃない!
一日一日! これからはずっと、一日一日!』
(…)私と妻はこれからもあの『キャウ!』の瞬間に立ち返って、またその次の意味を知る、
『キャウ!』
はそういうことすべてのはじまりの合図だったということか、『キャウ!』は私に流れていた時間を断ち切って、過去とか未来とか関係なくしたということか。(p49-50)

この短い引用のなかで保坂が何度も「キャウ!」と書き、「『キャウ!』の瞬間に立ち返」ることは、声の起源を求めて過去に遡行することではない。そのつど現在話された「キャウ!」である。過去の可能性の世界と現実は群れとして常に並走していて、そのたびに私を揺する。最後に『未明』の一節を引用しておこう。

私はあのマンションを見るとき、子猫のブンをひとりで置いてきたという気持ちにならずにいられず、その気持ちがいまになってもつづいている。東横線の窓からみるたびに感じていたそれが経験と同等になり、私はあの時間と私たちを丸ごと置き去りにしてきた。(p67)