今日の夜ご飯はトマトとたまごの炒め物を小野寺がつくり、昨日買っておいたタラでムニエルをつくった。すこし塩味が足りなかった。タラはだいたいしょっぱいイメージがあったが、今日使ったものはあまり塩気がなかった。しかし味の薄いものを食べると、食べ終わったあとに口の中で後味が残りすぎないので僕はちょうどいい。もともと実家では母がかなりの「味薄党」であるために、味が濃い料理は食卓にあがらなかったということもあるかもしれない。自分が「これが料理だ」と思っているものは、教育などと同じように刷り込みであり、その枷を外すのはなかなか難しい。

今日は前回の続き『小鳥、来る』について書こうと思っていたが、先日発売された『新潮』の五月号に載っていた、これも山下澄人『FICTION04』と『群像』五月号に載っていた保坂和志『鉄の胡蝶は歳月は記憶は夢の彫るか』が面白かったので、今日はそっちのことを書く。

『FICTION04』は、いわゆるエッセイ風の短編小説で、セザンヌにまつわる本の膨大な量の引用とそれに関する思考、そして自身が現在行う演劇活動について書かれている。
冒頭で、言語と伝達に対する不信感が語られる。多くの女性と関係を持った俳優の逸話、「逸話」というからには語り継がれてきたことだ、しかし伝えられるたびに俳優と女優の間で起こったことの細部、リアリティ、その他二人があらゆる感覚を用いて感じたものや現象が捨象されていく。
「伝」という字には、もともと「ありったけの荷物を袋に入れて、その村から放逐される」という意味があったと、昔読んだ古井由吉『仮往生伝試文』の佐々木中の解説で知った。
言語の「伝達」によって感覚の細部、リアリティ、語りがたい、現前する事象から放逐されるのは、伝達する当の人間だ。

、出来るのは、出来たのは出来ている気がしているのは記号の伝達、きごうのでんたつ、伝言ゲーム、言葉の向こう、言葉のはじまりへ到達することはできない、絶対に。
セザンヌはその絶対を絵でやろうとしたんじゃないか、一人の人間、猫でも犬でも木でもいい、物でもいい、それ、それがどうやってそこにいるのか、それ、というのか、自身をわたしとするこのこれのどこを見て、それ、というのか、高速で移動し変化し続けているそれのいつを見て、それ、とするのか、いる、とするのか、いる、とは何か、そこに、いる、ある、

子供のような素朴なギモン、これに対して哲学や精神分析を使って説明するのは簡単だ。だが、そうした態度は哲学や精神分析のあり方を裏切ることになる。
ちょうど今日読んでいたラカン『フロイトの技法論(上)』で、ラカンはフロイトについてこう言う。

つまり、すべては物理的な力、即ち引力と斥力とに還元されるという信仰です。この前提に浸り切ってしまえば、そこから抜け出す理由など何もありません。フロイトがそこから抜け出したのは、他の前提を持っていたからです。つまり、彼は彼自身に起きたこと、即ち幼少期の二律背反的な事柄、彼の神経症的な障害、彼の夢などを敢えて重要視します。

フロイトは、人間が世界に触れるには自分自身を手掛かりにするしかないという、何も頼るべきものを持たない荒野のような場所で思考した。それを拒否してエラい人の言ったことを説明して分かった気になるのは「すべては物理的な力」に還元されるとする「信仰」にとどまることでしかない。
山下澄人は、彼の身体を使って、「伝」の向こう側へ踏み出す。それは作中では「超」と言われる。

実験とはこうだ、そのひとが、誰でもいい、そこにいるひと、が、そのひととしている、ある、あるだけとなる、そのひとそのものとなる、

とつけてみた、
超そのひと
として立ちあらわれること、しかも常に、必要とあらば自覚的に、立ちあらわれることは可能か。
おそらくセザンヌは山を超山として描こうとした、山以上に山を山なものとしてあらわそうとした、(…)肖像画もそうだ、(…)そうすることでそのひとは、そのひと、とようやくなる、ようやくひとが壁やリンゴや山と同等になる。

実験、楽ちん堂というカフェで、ラボと名付けられた試みが始まった。
一昨年の年末だったと記憶している。私もその場にあつまったひとりだった、繰り返し行くようになったひとりだった、次第に行くではなく「来る」と言うようになった。
あるひとが「あなた、水を、飲みなさい」と言った時に「死んだひとがしゃべるのをはじめて聞いた、見た、と思った」と山下は書く。これは実際にあった出来事で、あの場にいた誰もが思ったことだ。ラボにはぼくのように芸術が好きな若者から近所のオジさんオバさん、いろんなひとがいる、その誰もが感じた。山下が小説家だから特別なことを感じたわけではない。あのとき、そのひとは「超そのひと」だった。

そうか、飽きていいんだ、飽きたらやれないんだ、退屈したらやめたらいいんだ、そこにさえ注意深くあればいい、才能じゃない、やはり才能じゃない、努力でもない、ひとならやれる、ひとであることだけが重要で、それさえあればこれはやれる、それがむつかしい? そうやって簡単なことを無理やりむつかしいことにするのは、噛み応えを何にでも求めるのは、呪いだ。

保坂和志の話はまた次回。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です