朝起きて、近所にある喫茶店「リスボン」に行って小野寺と食べ、それからすこしバイトをして、ベケットを読んだ。お昼はスパゲティを小野寺が作ってくれた。トマトとアスパラガスが美味しかった。にんにくの香りがして、私はにんにくが好きなので嬉しかった。
そのあと昼寝をして、小説を書いていたが、昨日と今日はほとんど進んでいない。
怪我をして中野という昔の友人の見舞いにいくシーンを書こうとしている。机に向かう前は、病室に着くと中野の母親が中野を膝枕しているところから始めようとしていた。つまりピエタだ。しかしだめだった。机に向かう前に思いついた、その時は面白いと思ったアイデアはたいてい書いてみると面白くない。書いてみながら考えたり書いたり消したりするもののほうが、残ることが圧倒的に多い。
だからいつもはあまり次の展開については何も考えないようにしている。次の展開について考えるのではなく、昨日書いた文章がどういうものなのか、どういう思考が可能なのか、そういうことを考えたほうがたのしい。

最近変わってきたのは、つまらない文章がつまらないと分かる速度だ。はじめは数枚か数十枚書いて、読み返して、ようやくつまらないとわかった。それが書き直している早い段階で、これはいくら書き直してもつまらないと気づくようになった。いまでは、書きながらつまらないなとだいたい分かるようになった。しかしなぜか書いてしまう。これはあとで消すな、と思いながら書いている。

ついさっきまで山下澄人『小鳥、来る』を読んでいた。あらすじなどはネットで調べて欲しい。そして買って欲しい。山下澄人はほんとうにすごい。小説や戯曲を書いているあいだに山下澄人の小説を読むと、今まで自分が積み上げてきたものがガラガラ崩れ、また一から考え直さなければならなくなる。

山下はさきほど書いた、つまらない方向へ向かう文章を回避する能力が異常に高いのだ。
作家なのだから当たり前と思うかもしれない。だがほとんどの作家は自分が前に書いた文章を受けて、それと整合性がとれる範囲で新たな文章をつくる。山下の場合そうではない。文章が切れるごとに、今語り手がどこにいて、いつなのか、読者は考えなくてはならない。暴力的なほどの飛躍と切断、それらの再結合で小説が構成される。山下の小説でしばしば主人公の憧れの対象として出てくる俳優ブルース・リーの、格闘シーンの身体の流れを見るように、読者は山下の身体の動きとして、それら切断と結合を読むことになる。
山下の文章は「AがAであるとき、同時に非Aではありえない」とする排中律を破壊するし、社会で「これはこういうことにしておきましょう、じゃないと社会で生活するうえで不便なので」とされていることも簡単に無視する。
そんなことに従っているから、つまらない文章しか浮かばないのだ、と山下は笑うにちがいない。

『ベケットとヴァン・ヴェルデ』という本を読んでいたら、こういう言葉が出てきた。ベケットが『モロイ』を書いた頃の話。

「それまでは知識が信頼できるものだと信じていた。知的な面で準備を整える必要があると思っていた。あの日、すべてが潰え去った。」(…)
「自分の愚かさがわかった日、『モロイ』を書き、その続きを書いた。わたしはそのとき、自分が感じていることを書きはじめたのだ」

山下澄人の小説を前では、それまで社会生活を送る上で身につけてきた知識は不要なものとなる。必要なのは感じていることだけだ。奇しくもブルース・リーには「Don’t think, Feel.」という名言がある。

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