オオゼキでかつおのたたきが安く売っていた、なめこの味噌汁、なめこは産直のものを扱う店で、安い、二つの箸は私と恋人のもの、妹も一緒に住んでいるが、コーンフレークと卵ご飯が主食らしい、カレーかパンケーキのような甘いものを作らなければ食べない、バートルビーのようだと思うが、このあいだ奮発して紀伊國屋でホットケーキミックスを買って作ったがそれは食べなかった

ベケット

目が覚めて、恋人がバイトだというので朝ごはんと弁当を作った、見送って弁当の残りを朝ごはんにして食べた、小説を書こうと机に向かったが身体がだるい、倦怠感、そして眠い、私はいつも熱が出る前に猛烈に眠くなるから危ないと思った、もちろんコロナのことがよぎる、もしかしたらもしかしたら、と思いながら、ベケットの『マロウンは死ぬ』を読み始めた、ベケットの小説はある時期以降、主人公は語らずに「主人公に聞こえている声」が記述されているという形式をとった、それは身体を持つとされる登場人物が、聞こえてくる発話内の主体と一致させることを試みたものであると研究ではされている、『名づけえぬもの』以降それは顕著だ、私はその声が読者に読めてしまうこと、つまり登場人物と同じように読者も声を目の当たりにしてしまうこと、その意味で二者の知覚が同一の地平に置かれること、それを強要されること、その恐ろしさについて修論で書く、だがその前作『マロウン』は違う、主人公マロウンが死ぬ前にサポスカット(途中で名前が変わる)という少年の物語を書くという話だ、小説はマロウンが語る物語とマロウンが部屋にいてご飯を食べたり排泄したりする「現在の状況」が交互に描かれる、あからさまにメタフィクションの構造をとっている、これについてどう考えるか、と考えていた、思いついた、挿入されるサポスカットの物語に、書き手マロウンの状況が侵食されている、現実に影響を及ぼす、としよう、この程度ではメインの議論にはならないがどこかで軽く考えておくことは大切だろう、目が覚めるとキッチンで妹が卵ご飯を食べていた、ああ、とか、おお、とかだけ言ってまた自分の部屋に戻っていった、1日のほとんどを自分の部屋から出ずに勉強している、まるでマロウンじゃないか!

コロナ

マロウンはそんなに勤勉じゃないが、私は近頃驚いている、コロナに伴う自粛に友達や知人が不安だという、どこにも行けなくて辛いという、分からない、私は1日に一度か二度、朝と夜遅い時間に散歩する、もちろん街は真っ暗だが、近所の井の頭公園に行くと、木々が揺れている、鳥が鳴いている、いつもより元気に見える、Twitterでは人がいなくなった場所に動物が歩いているという投稿を目にした、人間がどんなに抑圧しようとも、そのわずかなひび割れから動物や植物は繁茂しだす
ジュネは刑務所のひび割れた壁に蔓がはっているのを見てそれを権力への反抗として描いた、弱いものの、生きるための何気ない身振りが権力を微細に破壊する、万引きの身振りに美を見出すジュネはそのように書いた、抑圧できていると思っているのは権力者だけだ、人間だけだ、
コロナで不安? それはそうだ、だがだからなんなんだ、人が死んで良いといっているのではない、そうじゃない、もともと私は安定したことなどなかった、貧乏だったし、今も貧乏だったし、友達も貧乏だったし、書けないが差別のようなこともあった、ずっと不安定に生きてきた、私より不安定な人間などたくさんいる、しかしそれが世界だ、ずっとそうだった、今だけじゃない、今は人がどんどん死んでいく、権力も何も関係ない、弱いものも死ぬ代わりに権力者も死ぬ、それは人間の政治的な論理とは全く別の次元だ、心地いい、人間というフィクションが壊れていく、政治や経済ではどうすることもできない何か、微細な身振りによる決定的な反抗

リモートワークが進んでいるらしい、大学はオンライン授業だ、家にいなければならない、そうだ、これを機にみんながもっとダラダラすればいい、経済は小さくなる、だからなんだ、ウイルスには鳥には犬には猫には関係ない、人が一緒にいることの尊さを知る、近所の散歩と多少の仕事、時間ができれば文化的なもの、スポーツでも芸術でも、に時間を費やすこともできる、金儲けが人生の大半だと、働いてなければ金がなければ人生のあれこれを楽しめないと、嘘だ、嘘だった、私たちには身体がある、散歩する身体、踊る身体、愛し合う身体、ウイルスにかかってすぐに死ぬ身体の、なんと弱々しい身振り、

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