このままの書き方では何かいけない気がして、もう少し日記を書くことに圧力をかける必要がある気がする。ということを考えてるうちに昨日書けなかった。今何かアイデアがあるわけでもなし、とりあえずお寺のでかい鐘をガンガン鳴らすように書いていくしかない。
とにかく昨日は、自分が有名な作家の日記を読む時にどういうふうに読んでいるかなど、思い出していた。
①最初から読まない。(たまたま開いたページを読む。聖書と同じ)
②一度も端から端まで読み切ったことがない。(これも聖書と同じ)
③読んでいる自分の現実の日付けと同じ日の日記を読む。

日記は、最初から最後まで順番に読んでいくことを前提としない。また、読者が1/1 の次に1/2 を読むかどうかも分からない。しかし日記を書く側は毎日、つまりそれを連続して書いているわけで、そこに書く側と読む側のギャップがある。ギャップと言っちゃえば、そりゃそもそも書いている日と読まれる日の隔たりだってあるのだけど、そこを問題にすると、読者というものにどんどん寄っていってしまう気がする。
問題の読者とはさしあたり書いている自分と、最近はSNSでこの日記を毎日あげているので、そこでリンクを踏む人でしょう。

しかし、順番に読まれないからといって、断片化していくのは能がないよな。隣のお爺さんの貧乏ゆすりが激しい。

本当はユトレヒトという本屋で、中島あかねの個展を見に行こうとしていたんだけど、雨が降る予報で、口が開いてるバッグにしちゃったから本が濡れたらやだし、駅に着いてから、今日じゃなくてもいいやという気分で立ち止まって5分くらい、北口のカフェとか古本屋行くか、それとも武蔵境の武蔵野プレイス(図書館)行くかって立ち止まって考えてたら、「カレラ君」って呼び止められて、といってもそもそも止まってたけど、辻村優子がいた。
お茶でもというので、フランス屋というお店でケーキをおごってもらって、家の庭見なよというので家の庭を見に行った。途中の本屋さんで『夜と霧』の古本を買った。梅が生えていて、
「この梅は誰のものなのかって、毎年ちょっとピリピリしながら話し合うの」
その向かい側に梅が生えていた。
「これは去年、枝切ったのね。そしたら、今までで一番、綺麗に咲いてる。ここからがうちの庭」
「どうしてこんなに向かい合ってるんですかね。話し合いしてるときにもチラチラ、この梅が目に入るでしょ」
レモングラスのお茶は利尿作用があるのか、それとも急須いっぱいのお茶を2時間としないうちに飲みきったからか、3回くらいトイレに行った。帰り道に、演技ができていない、なにかその役になり切れていない俳優、そこが面白い、という話をしたら、できていない俳優を見て面白いって、どんな感じですかと言った。その前に、庭に生えている枇杷の木を見ていた。
「庭が狭く見えるから邪魔だと思って最初は切るつもりだったんだけど、伸び切って屋根より高くなったらまた日当たりが良くなった」
窓からは全体が見えないくらいには高く伸びていて、おれは、去年の枇杷の季節に小野寺が、「枇杷は間引きしないと甘くならない」と言っていたのを思い出していた。
「願い事で、一軒家に住みたいって書いて、その時絵を描いたんだけどね、庭に一本、実がなる木を描いてたの。そしたらその絵に描いたとおりの家に今住んでる。願い事はできるだけ具体的に願わないとダメ」とか、それに近いことを言った。
「どんなふうに面白いかが分かれば、もう演劇というものは必要じゃなくなってしまうんじゃないですか」とは言わなかったし、その時そうは思わなかったし、今こうやって書いてみて、そんなに簡単なことじゃないという気もする。
男の子がいて、一緒にスキップをした。辻村さんは、男の子ともその家族とも、とても仲が良さそうだった。この子も大きくなったら、梅の話し合いに加わるんだろうか。それにしてもなぜ梅なのか。桜だったらどんなに良かったか。
マスクを失くしたと思ったらあったからカフェに寄って、オフィスマウンテンの新作戯曲を読む。タラとほうれん草の煮込みを食べた。