修論が終わって、保坂さんから送っていただいた新刊『猫がこなくなった』を読んだ。九つの文章が入っていて、半分以上は読んだことのあるものだったけど、表題作に衝撃を受けた。

内容(については山本浩貴の文を読むのがいいと思う。おれはあらすじがうまく書けない)も、その辺の「短編の名手」とか呼ばれているラテンアメリカ作家なんかより全然おもしろい。クローンの話、可能世界の話、私が「この私」であること、数十ページの短編に、いろんなことが書いてあるけど、おれが読んでいる途中に考えていたのは、内容についてよりも「この小説はおれには分からない」ということだった。
この小説に限らず、保坂作品にはたくさんの猫がでてくる。猫は実際に保坂が飼っていた猫が登場することが多い。
で、おれは保坂和志の小説を読むとき、作者と猫がともに生きる膨大な時間や空間の厚みを引き受けることが要請されると感じる。おれはいま25歳だけど、保坂和志は多分、おれの人生と同じかそれ以上の時間を猫とともに過ごしてきた。保坂和志はこの時間の厚みをそのままに、猫のことを書く。

作品から滲み出てくるこの経験や時間を、読者はたぶん、他のものに置き換えて理解してはいけない。おれは小鳥を10年以上飼っていた。思春期はずっと小鳥と暮らしていた、だからといって「保坂さんの猫はおれにとっての小鳥なんだな」というふうに理解するのは、間違いなのだ。「大切」とか「かけがえのなさ」とか「経験の厚み」というのを言葉の意味でとってしまうと、そうやって代替可能な話になってしまう。というか、言葉というのはそういうものだ。しかしひとりの生き物が生きる時間を、べつの生き物や、べつの時間に置き換えることはできない。で、そういう時間というのは、言葉とはべつの層にある。
保坂和志は、自分と多くの猫が過ごした、この置き換えできない時間の厚みを用いて小説を書く。「用いて」というのが大切だ。それは猫「について」書くのとはまったく違う。猫と一緒にいた時間が、小説を小説たらしめるものとしてずーっとうごめいているのだ。
25年しか生きていないおれも、保坂さんと同い年のひとびとも、等しく保坂和志の小説は理解できない。保坂の小説はむしろ、作家と猫が過ごした膨大な時間の厚みの前で理解を阻まれるというかたちでのみ現れる。その意味で、保坂和志の小説がわかるのはともに生きた猫だけだ。でも猫は小説なんかより、1日1日を生きていることのほうが、もっともっと大きいことだと言うだろう。