夕方までライターの仕事で話し合いと授業の準備。ロイヤルミルクティーをいれたあと、風呂に入ってからジュンク堂でデリダの『アーカイヴの病』を買った。原書版のPDFは持っているのだけど、流石にいまはじっくり読む時間がないので日本語版を買うしかなかった。アーカイヴというものに対する関心は、少しずつ高まっている。

その後アップリンク吉祥寺でグザヴィエ・ドラン『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』を見る。前回見たドラン作品が『私はロランス』で、それがかなり良かったのでハードルがかなり上がっていたというのはあって、今回は傑作というものではないと思った。ストーリーもすこし物足りないというか、型にはまっていたと思う。面白かったが、「面白かった」以上のことが言えない、という感じ。でもそれは、おれがあまり何も考えずに見てしまっていたということかもしれない。

セリーヌ『夜の果てへの旅』続き。
やっぱり、内臓とか肉体に関する記述が多い。読みながら、「死」というものに対する特異な見方があるだろうなと思う。
広く人文系の「死」に対する思考は、「存在」というものともちろん大きく関わっているはずで、その終わり/終わらなさに関わることとして思考されてきた。死とともに、人間は存在しなくなる。あるいは、存在の層?レベル?が変わる。(終わらなさで言えば、たとえば「トーテムとタブー」とかあると思う。)
この存在の喪失は「喪」を招く。そして彼ないし彼女が生きていた過去への遡行不可能生や、喪を通じて連帯する共同体が問題になる。
だがセリーヌの場合、死が意味するのは、身体にハエがたかり、蛆虫が眼窩に棲むことだ。肉体レベルの死=腐敗がいつでも問題なのだ。腐敗は必ずしも老いを意味しないが、しかしセリーヌが見ているのは、生きている人間の腐敗である。人間が生きていて、身体の中を唾液や血液が駆け巡り、腸や膀胱に小便とうんこがあるのをセリーヌはいつも見ている。それは絶え間ない生の運動をつづける死である。だからセリーヌにとって、生きていることは、死んでいることでもある、かもしれない。それは今の所、あまり明示的には書かれていない。
セリーヌを読んでいると、死について暴露しようとする諸々の思考は、もしかしたら暴露することでむしろそれを覆ってしまうようなものなんじゃないかと思わされるところがある。

まめ蔵のカレーはうまい。なんだかもくもくと食べてしまったが、内装も好きだし、風味が濃厚で好きだ。シシトウ、ミニトマト、ナスもうまい。あったかいミニトマト、おれ大好きだ。