今日は黒澤清の「スパイの妻」を見に行こうと思ってたんだけど、寝坊。吉祥寺に行って本屋を回ってから、人混みに疲れて三鷹の喫茶店でお茶。

ずっと日記を書けなかったのはなんかこのままの書き方ではダメなんじゃないかと、カフカの日記を読んで思ったからで、だからといってカフカのマネをしても仕方ないし、特に答えが出ないまま再開する。

最近は、ずっと読み続けていた大江の『M/Tと森のフシギの物語』も読み終わり、ベケットの『エンドゲーム』を読んでいつかこれを演出したいと思ったり、ドゥルーズの「恥辱と栄光——T.E. エリオット」という小論を読んだ。この小論の恥辱についての部分で、ドゥルーズはジュネの裏切りについて語っていて、ちょうど一年前に読んだ宇野邦一のジュネ論が、身振りとそれによる裏切りをかなり重めに論じていたのを思い出した。

というか、ジュネに顕著な「裏切り」という主題だけじゃなく、「投影」(=反射)という主題も、エリオット論にはあって、ジュネを知った後ではこれはエリオットの砂漠によってまさにジュネを映し出しているような、そんな感じがする。しかしそれにしてもドゥルーズはいつまで経っても、読むのは好きだけどあんまり理解できない。この論についてはちょっと論文を調べてみたりしたけど、ほとんど見つからなかった。
「ロレンスには、アラブ人に混じってアラビア語を話し、アラブ人の服装と生活をして、拷問を受けるような場合ですら、アラビア語で叫ぶのだが、アラブ人の真似はせず、それを1つの裏切りと感じてしまってはいても、自分の差異を決して放棄しようとはしない。若き花婿の衣装、「疑わしき白無垢の絹」に身をつつんで、彼は〈配偶者〉を裏切りつづけるのだ。」(p240)

イギリス人であるロレンスは、アラブ人の格好をしても、絶えず裏切りに苛まれる。だがドゥルーズ曰く、それはアラブだけでなくイギリスをも裏切ることだと言う。それは「どこまでも秘密のままの主観的資質であり、国家的ないし個人的な性質とは混じらず、彼を故国から遠く離れた場所に導いていき、自分自身の荒廃した自我の廃墟のもとに立ち至らせる」。

とはいえ、この裏切りそれ自体が、ロレンスとジュネ(注釈でジュネとの関連が示されている)にあっては、裏切られてしまう。そこでドゥルーズが問題にするのは、ひとつの欲望、「事物に、未来に、そして空にまで、自己自身と他者たちのかなり強烈で、それ固有の生を生きているようなイメージを、つねに手直しされ、繕われ、途中でも巨大化しつづけ、ついには想像を絶する大きさになるイメージを投影しようとするある傾向」だ。

それは多分、バタイユが『文学と悪』の中で、その至高性に向かう性質自体は認めつつも、「非交通的」と言って批判したやり方、ジュネ前期(=小説)のかなり古典的で彩飾された文体によって対象を至高のものに押し上げるそれのことを指しているんだろう。ドゥルーズはエリオットについて、「夢は好きではない」が、「白昼夢を見る」人間であることを強調している。
ドゥルーズが言う「投影」、それは現実からも夢からも自分を規定することなく、「自分自身やアラブ人たちから抜き出すことのできたイメージを現実的なるものに投影する」ことだ。エリオットはこれによってのみ「自己を規定する」。

この投影について、エリオットは政治的な〈反抗〉を必要としたが、それはしかし「現実的なものに呼応するのではなく、それを創り出すことが大切」であって、投影されたイメージが現実と対応するわけではまったくない。「この種の投影についてジュネが述べているように、イメージの背後には何もなく、ただ、溶解した自我を表す空虚、つまり「存在の不在」があるだけだ。さまざまなイメージの背後には何もなく、ただ、この血なまぐさく、引き裂かれてさえいるイメージを奇妙な冷徹さで見守る精神があるだけだ」。
ここでドゥルーズはエリオットの書物の2つの側面を見る。1つは現実に投影されたイメージ、そしてそのイメージのうちに生きる生についての書物という側面、もう1つは、そのイメージを「冷徹さで見守る精神」についての書物という側面。

眠くなった、続きは明日にしよう。

昨日から戯曲を書いている。3月のはじめに山縣さんが一緒に作品を作ろうと言ってくれて、岡田勇人さんも加わって、3人で各々戯曲を書くことになった。おれは駆け出しのペーペーであり、山縣さんは大先輩と言っていいと思うが、作品を一緒に作るということは多分、謙遜をしていたらダメということで、とにかく自分が前進するようなものを書かないといけない。
この日記の形式を演劇に導入すること、つまり書いている自分の時間の流れそのものが作品の内容に介入すること。それから、俳優はセリフを発話することで唇を歪められているのだという暴力、ト書きによって指示されているという暴力を自覚すること。そしてこのト書きとセリフ、台本と俳優の間にある権力関係-暴力を反転させ、消去することで、喜劇を作ること。

しかしそういうことを考えて、困ったことのひとつは、自分の暴力というものをかなり意識させられる、そのせいで体力がすり減る。
今までは戯曲はパソコンで書いてたけど、今回はノートに手書きで書いてみている。