朝起きると13時半。あー今日も半分終わったな。小野寺は遅くまで寝るとやれることが少なくて悲しいらしい。おれは午前中に起きると、なかなか1日が終わらなくて、いつになったら日が暮れんのかって絶望してくる。ブランチして、ちょっとやることやったら夜になって、夜ごはん食べた後に少し好きなことやって寝る、というのだけで十分。睡眠による有限化だ。とはいえ小野寺も今日は悲しくなさそうだった。

卵麺(小野寺の故郷の岩手の名物)を食べてから吉祥寺。井の頭公園の、早く桜が咲く広場を通って古書防破堤。『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編 』を買う。サンマルクで大江の続きを読む。ホットティーのレモンが、前までは小さな皿にレモンが置いてあるタイプだったのだけど、ハニーレモンというのに変わっていて、紅茶本体からその香りがする。よい。
オオゼキで買い物してから、家の余り物に牡蠣を入れて味噌牡蠣鍋。材料を入れて味噌とカツオ節を入れて火にかけるだけだけど、これが本当にうまい。白飯を入れて雑炊に。

食べながら関田育子の『盆石の池』を見る。演劇の映像配信。関田さんは全然喋ったことも会ったこともないのだけど、たしか同い年で、同い年が作る作品として見てしまう。と思ってたら、NO PROGRESSと同じ時期に稽古していて、早めに稽古場にいくと関田さんたちがちょうど帰る準備をしている、ということが何度かあった。ジャンベというアフリカの方の太鼓を買った日、興奮していて、知らない女性に、「これすごい良いでしょ、めっちゃかっこいいでしょ」と話しかけて、その人もいいっすねー、と言ってくれたのだけど、どうやらそれが関田さんだったようだ。昨日くらいに気づいた。
早めに稽古に行っては買ったばかりのジャンベを叩きまくりながら奔放に歌っていたおれが作るハイパーアホ演劇とは違い、関田さんのは非常にクレバーな作品だった。あと俳優の衣装が良い。縞模様のセーター、かわいい。

twitterが全てではないということは前提であるにしても(しかしどこかの媒体に載る劇評と、大枠のレベルではどれくらい違うのか)、検索をかけてみんなどんな感想を書いているんだろうとのぞいてみると、なんだか批評家を含む誰も彼もが映画的とかカメラがとか、そういうことを言っていて、それは多分関田自身が目指していることでもあるのだろうが、軒並みそろえて同じことを言う、この単調さに対して感じる虚しさはなんだ。
これは作家が分かりやすく自分の作品の指針を出していることの功罪でもある。何も言わなかったら意味不明な作品として何も言われずに終わるという怖さもあるんだから。とはいえ、見る側が作る人の目指している見方ばかりしていたら、作品それ自体も、作者も批評家も痩せ細ってくだろう。
twitterが演劇の感想を書くひとつの場?みたいな感じになってる以上、全然違う角度から見る人がいればいいのなーと思う(とはいえおれ自身がこの作品について「セーターがかわいい」しか書いてないんだけど)。

ハーブティーを淹れて、小野寺がバレンタインにくれたリンツのチョコを食べながら、大江の続きを読む。一章を読み終わった。少し前にパレスチナの小説を読んでいたけど、それは砂漠の話で、大江は森の話だ。おれには森は複雑すぎる……。森で暮らしていると、季節ごとに何かが採れて、川には魚がいて、木があって、晴れていたり雨が降っていたりする。おれは砂漠に行ったことがないけど、このあいだ読んだ「太陽の男たち」とか、『燃える平原』に出てくる暑い地域は、そういうものが何もなく、ずっと暑い。この変わらなさ、絶望したらもうそれ以降気分を変えるものが望めない感じ、が好きだ。
でも大江の、「壊す人」がめちゃくちゃでかいとか、その世代の人間は全員100年以上生きていたとか、読んでいてなんか楽しい。こういう虚構は高校生くらいまでは一切面白いと思えなくて、大学生の半ばくらいから少しずつ、面白いなと思うようになってきた。虚構を受け入れる態勢ができたとかいうのじゃなく、こういう虚構が現実を真に作りあげているということが、実感として出てきたっていうことかもしれん。
「壊す人」が自分と同じ世代の人間を引き連れて「あちら側」へと行くための行進が、「月の光のよう」だったと書かれていて、おお!となる。

近藤聡乃『ニューヨークで考え中』1巻を半分くらい読む。これはスーッと読めてしまって、それが良いけど、ニューヨーク(作者が外国)にいるという感じが読んでいてあんまりしないのは、どうしてか。安っぽいカルチャーショックを描いてないということか。分からんね。
カリフォルニアに行きたいと思った。アリゾナでもいいな。生まれた場所はやっぱり暑いところだった。多分、どこかのタイミングで、もう一回行くだろう。