そういえば、保坂和志がTwitterで、若くしてデビューすることについて書いてた。

【小説的思考塾vol.2(2/28)メモ】
宇佐見りんみたいに、あれよあれよと芥川賞をとってしまう人が出てくると、自分の小説が書けてない人は凹んだり焦ったりするんだろうが、小説を書くということは一生つづく行為なので、若さや早さはマスコミ的にわかりやすいだけで、本当のところはどうでもいい。宇佐見さん個人を指しているわけでなく、習得の早い人はいる。何をやってもわりとすぐに高いレベルまで行けてしまう。でも、その在り方の全体が違う。。。既存の器があって、それとうまく合わない自分の思考や内面がある。小説(文学・芸術)というのは、その「合わなさ」との軋轢。そこで鳴る軋みで、「私は社会と合わない」というメッセージを既存の表現の形式に上手に嵌められるなら、その人は、メタレベルでは社会と折り合いがバッチリついている。習得の早い人に感じる物足りなさはそこで、「合わなさ」の軋みが、表現の形式を押し広げないと、既存の形式は強くなってしまう。
必要なのは、器に合わせる技術を習得することでなく、器を自分に合わせるために思考しつづけること。個々の人がするべき思考を教えても意味がない。私が話すのは、思考しつづけるための基盤や材料の方です。いかに、自分を鼓舞しつづけられるか!

大学時代に宇佐見りんがデビューしていたらおれも少し何か思ったかもしれない。今は本当にそういうことが、早くデビューすること、デビューすること、売り出されることなどが、どうでも良くなった。これは小さなスペースで演劇をやることの効能でもある。若い才能とかいうより、老いて枯れ果てた芸術の方が圧倒的に面白いし。昨日小野寺と、20年後に何をしているかという話になって、おれの20年後はまだ45歳!

これがどういうことかというと、小島信夫がデビューしたのが40歳前後、ベケットがモロイを書いたのもそのくらい、山下澄人は66年生まれで2011年から書き始めたとwikiに書いてあったので、それでいくと45歳。FICTIONを立ち上げたのが96年とあって、ということはその時点でさえ30歳。おれ、あと20年もある!と思うと、早くデビューすることなんかよりも、あと20年どう考えたり作ったり働いたりするかの方がたのしく考えられる。

観客が5、6人の演奏や上演。客が少ない神話を崇めてるのではなくて、本当に何かが生まれる瞬間、文字通り瞬間は、ほとんど誰の目にも止まらない。メディアに露出すること、してしまうことの功罪というのは確実にあって、おれが好きなもの、やりたいことにおいては、やっぱそれは邪魔になるなと思う。

小劇場演劇をやってる人たちは、みんなそういう考えなんだと思ってた。それは資本主義批判でもあって、だから観に行くこと、小劇場演劇にお金を使うことも必要な実践だと思って、色んなとこに足を運ぶようにしていた。でもだんだん、必ずしもそうではないんだな、ということが分かるようになってきた。作家としてコンセプトを打ち出すということを、みんな(この場合のみんなは、東京のおれがチェックしてる人々に限られるが)し過ぎている。あるいは演劇もファッションや美術などと同様にブランディングをしないといけない時代なのか。いくつも作品を作るうちに自分のやることの方向性がある程度固まってくることはもちろんあるけど、それを「打ち出す」必要というのがあるんだろうか。あるいは、それは打ち出せるほど具体的なものなんだろうか…。

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