朝ごはんはワカメのふりかけでご飯とみそ汁とヨーグルト。すぐに食べて家を出る。「千葉正也個展」。

会場には貴乃花の色紙が貼られている。もう1枚、力士の色紙があったけど誰のものか忘れた。それは作品として貼られているわけじゃない。でもめちゃくちゃ印象に残る。
展示室は木材で作られた庭のようなもの(Twitterを見ていたら、そこを亀が歩いている動画が出てきた)によって左右に分けられている。かつ、ほとんどの作品は壁にかけられていない。額にも入っていない。木材で作った柱と言えばいいのか何というか、そういうものにかかっていて、看板みたいにして展示されている。だから展示室の右側を歩いている時には左側の作品の裏側が見える。ブツとしてのキャンバスが展示室の風景を作っていて、千葉は絵を描く際にオブジェを配置し、それをある種の風景として仮構して描いているらしいのだけど、そういうことの再演なのか。

見ている時、何人かで来ているおばさんが割と大きな声で喋りながら作品を見ていて、「これは何が言いたい作品なのかしら」と言いながら、作品の中に書かれている文字を読んでみたりしていた。
なんとなく、そういう気持ちになるのも分かる。個展全体を貫いているのは、ブツの配置による詩性であり、その詩性のばかばかしさだ。結構目立つ感じである『平和な村』という大きな絵は、美術手帖の記事を読んだら、かつて同じタイトルで描かれたモチーフを再度描いているらしい。それは引用とか繰り返し同じ物を描いているとかというよりも、「模様替え」って言う方が正しい気がする。監視員を描いて再演(と、別の人間がいることによる再演の失敗)することでそこに人間が配置されているということをめっちゃ浮き立たせること、決め打ちという感じでそこにあるのじゃなく常に配置替えされる可能性のある、とりあえずそこに置いてある感じ、それゆえにとりあえず隣り合って置かれていることのダサさ、そういうものを丁寧な筆致でリアルに描くことのばかばかしさ。それはちょっと気味が悪い。そういう恐怖に対する防衛としての、「何が言いたい絵なのかしら」

小野寺が祐天寺のsteef というお店でやっていたtossというブランドの販売会で、24000円の服を買っていた。おれは服も服屋も苦手なまま、今年はファッションについて色々勉強したいという気持ちがある。夜ご飯は、胃が痛くなって以来カレーを食べた。フィッシュカレーを頼んだんだけど、びっくりするくらい美味しくなくて、唐辛子の辛さだけがひたすら目立つカレーだった。「おいしくない」と感じることはあんまりないので、逆に貴重な気がする。美味しいものよりも印象が強く残って、店の雰囲気とか、店主の顔とか、そういうのが後々まで残る。
それで思い出したけど高校時代によく行っていた、通称「ギヤ」というラーメン屋があって、うちの高校ではマズくて有名だった。「産業廃棄物」とか「汗」という異名をとる豚骨ラーメンは、しかし替え玉が無料でいくらでもできるという最高のサービスがあって、マズいマズいと言いながら、週に一度は行っていた。スープが冷えるまで何度もおかわりして、スマホでゲームしたりアダルト動画を見たり、2時間くらい居座ってることもあった。そういう道徳的に最悪の行為と時間が、今どうしてこんなにも懐かしく、あまつさえ愛おしく抱きしめたくなるふうに思われるのか。