少し前に友人と何人かでZINEを作ろうということになり、しかし私を含めたメンバーのどれもが書くのが遅いのでいつまで経っても小説が完成せず、埒が明かないので一度集まって各々書いてきたものを読み合って、色々と話しあったことがあった。合評会というやつだ。書きかけのものを読み意見を言うのは、書店に並んでいる本を読んでそれをするのとはまったくちがう行為だ。製本された作品を読むときには、どうしても完成したものとして読んでしまう。この小説は完成しているということが常に頭の中にあって、だから私たちはある一文が目に飛び込んできたときに、それが小説全体のなかでどのような役割をしているかを考える。そしてこの「完成している」という前提から逃れることは思いの外むずかしい。書きかけの遺稿などであってもそうだ。それは「未完の小説」というある種の完成形である。
だが友達が書いた書きかけのものはちがう。それは多くの可能性に開かれていて、今書きかけのここまでで面白いかどうかが、一文追うごとに試される。「これから面白くなるんだよ」などという言い訳は効かない。じゃあそこまで書いてから持ってこい。
山下澄人『月の客』は、完成しているにもかかわらず、読んでいるあいだずっと、「書きかけ」の印象が頭から離れない、まれな小説だ。この小説は読点と改行だけでできていて、句点がない。読点で終えられた文章を、そのまま書きかけの文章としてみなすこと、句点なく改行された一文を、山下が「書かなかった」あるいは「そこで書くのをやめた」行為として捉えると、この小説はそのような行為の集積、あるいは痕跡として私たちのまえに現れてくる。放棄された文は、放棄されたところまで面白いかどうかがすべての判断基準となる。
山下は「新潮」2020年5月号に掲載された短編のなかでこう書いている。

そうか、飽きていいんだ、飽きたらやれないんだ、退屈したらやめたらいいんだ、そこにさえ注意深くあればいい、才能じゃない、やはり才能じゃない、努力でもない、ひとならやれる、ひとであることだけが重要で、それさえあればこれはやれる、それがむつかしい? そうやって簡単なことを無理やりむつかしいことにするのは、噛み応えを何にでも求めるのは、呪いだ。
「FICTION04 変転する北極星」p111

飽きたらやめる、それだけのことだ。ここまで読んでくれている方は、「書かれなかった行為の集積」などという僕の言葉から、文学的ないし哲学的な話になると予想されたかもしれないが、それは「呪い」である。飽きたらやめる。これは複雑な話ではない。ごく単純な話だ。だが、それが単純であるがゆえに、なかなかできない。第一に、飽きたらやめるというのは、飽きるまでは面白くないといけないということである。第二に、資本主義によって押し付けられた労働に慣れた私たちは、一度作業を始めると「ちょうどいいところまで」とかなんとかいって、そこまで書いてしまう、読んでしまうクセがついている。そこから解放されて飽きることは、ひとつの能力だ。
このふたつの先で問題になるのは、いかにして小説を書き続けるかということだ。『月の客』では主人公のトシや少女のサナ、ふたりの両親に起こった出来事が、「トシ」という名前によって仮定された身体イメージを超えて展開されるため、出来事は特定の主体を必要とせずにシームレスに展開しはじめる。つまり、その出来事が、いつ、だれが体験したことなのかが問われない。しかし山下作品の特徴は、それを可能にしているのが、他ならぬ人間の身体であることだ。サナはトシに、イエスが盲目のひとの眼を治すという伝説について話す。

たぶんな、目がな、見えるようになったというよりかな
自分で見るようになった、ていうな
サナは勝手にそう呼んでんねんけど
(…)
あんたには関係ないな
自分でしか見てないからな

(山下澄人『月の客』集英社、2020年、p55)

「見る」ではなく、「自分で見る」。人間のトシと作中に出てくる無数の犬との区別があいまいになるのは、まさにこの「自分で見る」ことによってである。

犬か
といった、
いぬが吠えた、
名前何や

いぬ

今どっちがしゃべったんや

(前掲書, ページ見失った)

「自分で見る」こととは、ある身体を通した知覚のみを頼りにする事で、逆説的にべつの身体やべつの身体に起こった出来事との交換可能性を広げることである。
このように小説は続いていくのだが、誰の話か、いつの話かが完全に溶け合ってしまった世界では、出来事は完全にその固有性を失い、続けることが不可能になる。

続かない

もう続けられない

もう境目が、ない

わたしは、わたしではなくなる

みんなそうだ

誰か続けて





トシ

(前掲書p146-147)

なぜ続けられないか、という問いはあとにとっておくことにしよう。それにしても、ここで「続かない」と言っているのは誰なのか?
山下作品の多くはこれまで一人称によって書かれていたし、それが「自分で見る」ことを可能にしていた。三人称の語りに切り替えられた本作においても上述のように多くの部分は身体に根ざした記述だが、ときおりこのように、誰の身体からも発されていない言葉が出てくる。
そしてそ山下が小説を書く上で「飽きない」ためのひとつの方法である。
2019年11月29日にTwitterで山下はこう書いている。

演技について考え続けてきたことは今やる小説にあきらかにそのまま流用されている、ぼくの小説は演劇的だといわれるがそうではない演技的なのだ、演技というロマンチックでもなんでもない、しかし俗に技術と聞いてイメージされるものとはまったく違う超技術に強くひかれたのだ、

演劇的と演技的の差。演技とは端的に、「私(の身体)」が、「誰か」を演じるということだ。上演中、「私(の身体)」は、「誰か」になりきっていて、そのかぎりにおいて、役はつねに交換可能性にさらされていて、「私(の身体)」はリア王にもエストラゴンにもなれる。
だからトシが「自分で見る」ことが意味するのは、山下がトシになりきっているということだ。気持ちの問題ではない。知覚を通して交換可能性を開くこの方法は、徹底的に身体の問題である。山下はこの意味での「演技」を、これまでの一人称小説において、方法的にも主題的にも前景化させてきた作家だと言うことができる。
「もう続けられない」のは、出来事を経験する身体の境目が完全に消えたあとでは、演じる役がないからである。そして「わたしが、わたしでなくなる」ような境地においてのみ、「演じられる役」と「演じる私」の二重の思考浮かび上がる。
しかし、演技にはもうひとつの側面が存在する。演じている最中も「私(の身体)」は「私」であり続けている、ということである。劇中で殴られる演出があれば実際に痛いし、セリフを発話しながら「今日の夕飯はカレーだな」と思うこともできる、このどうしようもない「私」。
演じているときに「カレー食べたい」と思うことができるように、小説を書いている時には、全くべつの、書いていないことも思考している。いや、山下と小説が書かれている媒体(パソコン、スマホ、紙)が別の身体を持っているために、山下は小説以外のことも考えざるを得ない。そのことから逃れることができないというべきだろう。
小説のなかで、ある犬が死んでいる。「いぬが死ぬ」と書く。だがこのとき山下の思考は、「その犬じゃない」とも言っている。肯定的なセンテンスを書くと同時に出てくるこの思考から逃れることはできない。山下が人間であり、生きているかぎり。
役になりきり、思考を小説そのものにすることで「自分で見る」ことと、その不可能性の境をさまようこと。「これ」と「これじゃない」の境をさまようことによって、小説は山下が続いていくのだ。飽きるまで。