3月に、ダンサーの岡田智代さんにお誘いしていただいて作った味噌ができていた——味噌汁を作るのが面倒なときは沖縄の言葉で「カチューユ」という、鰹節と味噌にお湯を加えるものを食べるのだが、今日は夜中に腹が減ったのでご飯を加えた——しょっからいという感じが全然なくて、甘みがあり、人生最高の味噌汁ご飯だった——これは夜食だ——夜ご飯は餃子とチジミで、食べながらパトリシオ・グスマンの『光のノスタルジア』を見た——チリの星空と独裁政権によって隠され続ける遺体、それを探す女性たち(なぜ女性だけなのか?)が「過去を探求する」という点で重なり合うというのは、なんだかNHKじみていた——その後mubiでやっていたキム・ボラの『リコーダー・イグザム』を見る——『はちどり』とかなり同じというか、ほぼ丸々同じことをやっているなと笑ったら、小野寺曰く、『リコーダー』が元になって『はちどり』が作られたらしい——個人的には、「リコーダー試験」という話の小ささと少女が抱く世界に対する違和感のバランスがよく、『リコーダー』の方が好みだ——『はちどり』は、ソウルの橋が崩落するという大きな事件が描かれる——二時間以上の長編を作るにはそういう出来事が必要だったのかもしれないし、あるいは逆にその出来事が尺の長さを必要としたのかもしれない——昼は研究のためにグレゴリー・ベイトソン『天使のおそれ』を読んでいた——
人は死ぬ
ソクラテスは人である
ソクラテスは死ぬだろう
という「バルバラの三段論法」に対して、ベイトソンは「草の三段論法」を提唱する——
草は死ぬ
人は死ぬ
人は草である
述語の類似が、主語を結びつけていく、ベイトソンは自然(というのは非常に短絡的な言い方だが、無機物の世界、ベイトソンの本の中ではプレローマと呼ばれている)の中では「草の三段論法」によって動いているという——平倉圭は『かたちは思考する』の序章でベイトソンを引用しつつ、述語同士が混ざり合いそれらが生み出す「形象」そのものを「思考」と呼んだ——「形象の思考」は見る者を作り変える——最近は体調があまり良くない、昨日?一昨日?は夜にじんましんがふぁーっと浮き上がってきた、朝方まで眠れない、だからといって頭はあまり働かないから哲学書などは読めない、今のところごろごろしてやり過ごすしか方法がないのだが、対談集とか読もうかな

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