何時に起きたのだったか。ライターの原稿が今日までだったので、専念。授業を受けてから昼飯を食べに、近所で一番おいしいピザ屋に向かった。が、臨時休業だったので、家から歩いて3分ほどの場所にある、前から気になっていたイタリアンへ。マリナーラ(トマトとバジルとニンニクが入っている、あとはわからない)とコンキリエ(ホタテ、ごぼう、チーズが入っている)を食べる。コンキリエというピザを初めて知った。ホタテは貝柱ではなく身の部分がごろごろ乗っかっていて、ごぼうはちいさく刻まれていて、噛みごたえがある。マリナーラが比較的シンプルなピザなので、バランスがとれていてよかった。


そのあとは佐々木敦の授業でファン・ルルフォを読むことになっていて、『燃える平原』を読み進める。「タルパ」という短篇が特にいい。主人公は皮膚病の兄のタニーロの願いから、その妻のナターリアと三人で、タルパという土地にある聖母(マリア)に何日も歩いてお参りしに行く。到着する頃にはタニーロの病状は悪化し、歩くのもやっとの状態になっている。そんなになるまで歩かせたのは、主人公とナターリアが実は愛し合っていたからだ。ふたりはタニーロが邪魔で、死なせたかった。この短篇は、タニーロがタルパに着き、「人々の踊りの輪に加わっていった」場面が最高だ。なぜ踊っているのかは説明がないからわからない。しかしここを読むと強く興奮する。

ふと気がつくと、タニーロは人びとの踊りの輪に加わっていた。ガラガラの長い柄をにぎり、紫色に変色した素足で地面をはげしく蹴っていた。全身を揺すって、狂ったように踊っていた。まるで、長年のうっぷんをはらそうとでもするように。あるいは生き延びたくて必死にもがいてでもいるように。(…)
おれとナターリアはその姿をしばらく眺めていた。ところがタニーロは不意に腕を上げ、前のめりにどっと倒れた。倒れたあともガラガラを振りつづけ、体をしきりに波打たせていた。ガラガラを振る手には血が飛び散っていた。踊り手達に踏み潰されないように、おれたちは急いでタニーロを雑踏の中から引きずり出した。無数の足は倒れている者がいることにも気づかずに、さかんに石を蹴散らし、跳ねては土を踏んでいた。
”p91

死に近づく者の長い旅のあとに来る「踊る」という言葉は、非常に強い身体のイメージを喚起する。これ以外の箇所は、タニーロを失ったナターリアの心情や、タニーロを殺すために聖母像を巡礼するという自分の罪の忘れがたさが語られているが、ここでは非常に即物的な描写がなされている。タニーロの描き方は文章全体を通してそうなっていて、タルパまで歩いている小説の前半から、すでに死体のように扱われている。だが聖母の街で、死体は踊る。踊る死体はなおも倒れる。
この描写は、現実的ではない。だが、即物的ではある。ルルフォの小説におけるこのふたつの距離は、『ペドロ・パラモ』で結晶することになる。「タルパ」では「まるで、長年のうっぷんをはらそうとでもするように。あるいは生き延びたくて必死にもがいてでもいるように。」と途中で挟まれるように、踊るタニーロに対して比喩を向けることで防衛が働いている。というのは、この比喩はタニーロに対する同一化であると同時に、死体と生者の差異化のためのものだからだ。比喩の距離は、「自分はあいつではない」と確認することでもある。
だが『ペドロ・パラモ』に至ってはかろうじて生きている証しであった叙情的な比喩も、死者のものとされる。「タルパ」では主人公は生者の視点から語っているが、『ペドロ・パラモ』では主人公さえも死者であり、比喩は距離を測るものではなく、「主人公の現在」と「父親の過去」という時間を超えて、暴力的に二者を同一空間に配置する。もはやそこに「現在」という視点はなく、小説が読者の前に現前するまさにその瞬間さえも過去の声が飲み込んでいく。

夜は、コリアンダーとターメリックの粉末を買ってきて、初めてスパイスカレーをつくった。肉は鶏肉のネック(首!!)。といっても、今回はほとんど小野寺が作ったので、おれは付け合わせとしてトマトのオリーブオイルあえを作ったくらいだ。超うまし。真ん中にパクチーを乗せて、結果として超おしゃれ料理になったが、スパイスカレーはコスパがいいことがわかったので、今後かなり頻繁にこの記事に登場することになるだろう。

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