朝の五時ごろまで眠れず、昼になって目がさめる。ライターの原稿の納期が今日までだったので、二時前に納品した。玄関の前にアンドレバザン『映画とは何か』の上下巻が置いてあった。amazonで頼んだものだ。
すぐに四限の時間になり、ゼミに参加して、中国人留学生の方の、2.5次元論を聞く。留学生には、いつも尊敬の念しかない。自分が外国に行って、外国語で修士レベルの発表しろと言われても、できる気がしない。日本語でさえ、できているのかいないのかあいまいなままやり過ごしているのに。
寝不足のせいか、胃腸炎のせいか体調が悪く、五限のゼミは欠席し、外の空気を吸うために歩く。雨が降っていた。傘は差さなかった。喫茶店「リスボン」でコーヒーを頼み、バザンの「絵画と映画」の章(アラン・レネが撮ったゴッホの映画について書かれている)と、ドゥルーズ 『意味の論理学』を読んだ。

いいかえれば、絵画の額縁はその中で空間が方向を失うような場を作り出す。自然の空間や私たちの活動を外側から限界づける空間に対して、それは内側へと向かう空間を対置するのである。眺められるべき空間はただ絵画の内部のみに向けて開かれる。/一方、スクリーンの外枠とは、(…)それは現実の一部分の覆いを取ってみせるための「マスク」なのである。額縁が空間を内へと収斂させていくのとは反対に、スクリーンが私たちに見せる一切のものは、すべてが外の世界に際限なく延び広がっていくはずである。額縁は求心的でありスクリーンは遠心的なのだ。とすれば、絵画制作のプロセスを逆向きにして、額縁にスクリーンをはめ込むなら、絵画の空間はその方向性や境界を失い、私たちの想像力にとって無限の広がりを獲得するだろう。そのとき絵画は、造形芸術としての特徴を失うことなく映画の空間的な特性を与えられ、あらゆる方向に絵画の境界を越えていく仮想的な絵画空間となる。(アンドレ・バザン『映画とは何か』p321)

絵画作品を変質させ、額縁を壊し、絵画の本質そのものに攻撃を加えることで、映画は絵画にその数々の潜在的性質を明かすように強いるのだ。はたしてレネ以前に、「黄色抜きの」ヴァン・ゴッホがどのようなものか私たちは知っていただろうか。p327

夜ご飯は、かなり長いあいだ冷蔵庫にいた野菜を食べきるために、アーリオオーリオのパスタを作る。トマト、セロリ、ズッキーニ、玉ねぎ、ベーコン、イタリアンバジル。ごろごろの野菜が好みだ。ズッキーニはあまり火を通さなくても柔らかく食べられて良い。小野寺はニラ玉を作る。実家ではニラ玉といえば炒めたものだったので、汁だくのニラ玉は初めてだった。


『かぐや様は告らせたい?』をamazonプライムで最終話まで一気見。運動会編で石上くんが大好きになった……。全体としては、生徒会ものというのは学校の何でも屋的な感じなのだろうけど、依頼を受けるとか相談を受けるとかはほとんどなく(少なくともアニメ版では)、ただかぐやと白銀の恋愛とギャグに終始しているのがよかった。ただ藤原がアホっぽいのは若干記号感があり、話が進むにつれてむしろ乗れなくなってくる部分があった。これは、「単なるバカ」として描いているわけではないからだろうと思う。藤原が活躍する話があるからこそアホなこと言ってるときに記号というか「そういう役割」として認識してしまうということだろう(藤原が女性だということだけでアホとして描くのが女性蔑視だということにはならない。かぐやと白銀のキャラを考えれば、二人の恋愛に気づかないが、それを引っ掻き回すアホキャラが出てくるのは王道で、そこに男も女も関係ないんだから)


MUBIで24時間限定で配信されたヴェルナー・ヘルツォーク『ファミリー・ロマンス LCC』を途中まで見た。俳優たちのかなりの作り物感と、ドキュメンタリーっぽいカメラで、かなり気持ち悪い質感だった。が、寝る。ここ最近眠れない日が続いていて、今日も寝られるかわからない。明日は世田谷の投票所まで、選挙に行く。

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