昨晩おそくに、山本(浩貴)さんが小説の感想を送ってくれていて、それを読みつつ、直しに没頭。昨日の夕方から突然かなりの腹痛に襲われ、経験上、急性胃腸炎の軽いものだと思うのだけど、お腹は空いていても胃が受け付けないので、ゆるい素麺にセロリと水菜、お麩を入れて、二十分以上かけて食べた。ミスドの汁そばを再現したスープ。白だしに鶏ガラの素を入れただけの簡単なものだが、うまい。ここ二週間でタスクが四つも五つもあって、そのうえ小説のこともあり、限界がきていたのかもしれない。僕にとってはよくあることなのだ。受験のたびに、救急車で運ばれてきた。
4時半から佐々木敦の授業で中原昌也について話す。『マリ&フィフィ』が連載時にはエッセイとして書かれていたということを知って、かなり驚く。それを聞いた後で読み返しても、小説にしか思えない。

その時だった。急に風が匂い、いきいきとどこかの地方都市の上空から見た風景が見えた。これは何かの超能力なのか? と考えたが一体何なのか自分でもよく判らない。その地方都市の公園のベンチで、つとむがうまそうに弁当を喰っているのが見えてきた。
「なんだ、まだつとむは生きてるじゃないか、落ち込むことはないぞ!」
なんだか自分の中で元気な力が甦ってくるのが感じられた。するとベンチの脇の茂みから五、六人の若者たち(十代前半と思われる)が鉄パイプを手にして現れた。一見して、この若者たちにはフレッシュ・ジェネレーションという名称がふさわしいと感じた。リーダー格の男の合図で一斉に鉄パイプがつとむに振り降ろされた。そして一瞬で血だるまに……。この時代のときめきを代表するような若者たちの登場に拍手をおくりたい。

中原昌也「あのつとむが死んだ」(『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』p45-46)

文庫本にして5ページほどの短編、死んだつとむについての回想と、ほとんど何も書かれていないに等しい、日常ですらない描写が続いた後、ラスト数行で、これまでの内容をすべて台無しにしてしまう破壊的な文章を置いてくる。厭世的な記述が続いたあとの、破壊への肯定。中原昌也の小説に、ルールはない。
夜は、『配置された落下』のメンバーと高田馬場へタイ料理を食べに行く。瀧腰さんや石田さんと対角線の席に座ってしまい、結局ロビンと話してばかりだった。
一次会が終わった後、小野寺とロビンと三人でマクドナルドに入り、誤字や表記揺れ、消すかどうか迷っていた文章などについて話し合って、文芸誌「ことばと」の新人賞に応募した。タイトルは『しあわせのいえ』という、あえてかなり素直なタイトルをつけた。私小説ではないが自伝的要素が含まれているので、奇をてらったタイトルよりも良いと思った。ちなみに小野寺はこの小説を4回ほど通して読んでいる。まだプロではないひとのものを何度も読むというのは、かなりのエネルギーが要るはずだ。出版されて活字になったものというのは、思いの外、読者を安定させる。逆に言えば、友達のものを読むときには、主題や文学的な問題以上に、一文一文の流れや凹凸を読み込んでいく、いかざるを得ない。しかし芸術というものはまさにそういうもので、小劇場演劇をやっているひとびとは、そうやって作品を見る/読む癖がついているのではないかと思う。小説家もそうなのかもしれないが、主題なんかよりも、作品の流れやマチエールのほうが重要だ。小野寺は半年間、俺が毎日書いた箇所を朗読するのも聞いていた。圧倒的な労力と、読解の密度だ。
家に帰った後は、中原昌也『作業日誌』がKindle unlimitedに入っていることを知り、いくらか読む。ものすごい数の映画、音楽を取り込んでいて、すごいというよりもおそろしい。Kindle unlimitedもそうだけど、アマプラにもmubiにも入ってるんだから、もっと映画とか見たほうがいい。そう思いつつ、最近は小野寺の妹に教えてもらった『かぐや様は告られたい』ばかり見ている。

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